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How did you feel at your first kiss?
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 暴君はいつでも命令口調で横暴で身勝手だ。
 だから暴君なのかと、当たり前といえば当たり前の事を神尾が朦朧としている頭で考えていると、冴え冴えと張りつめた声がもう一度同じ言葉を繰り返してきた。
「おい。口開けて舌出せ」
 今の今まで散々に貪られたキスで、呼吸も途切れ途切れで息苦しい。
 漸く開放されて肩で息をしている神尾は、跡部の言う言葉が二度目でもよく判らなかった。
 ぼんやりと見返すと小さく舌打ちされた。
「ン…っ………」
 いきなり口の中に跡部の指が差し込まれる。
 人差し指が神尾の舌の下にもぐりこみ、上から親指で押さえて口腔から引き出されていく。
 舌。
「……、…っ……な……」
 強く引かれてはいない。
 でも咄嗟に首を竦ませて怯えた神尾を跡部は至近距離から眺め下ろしてくる。
 跡部の部屋に入って、すぐに部屋の壁に押し付けられてキスされた。
 壁と跡部の狭間にいるまま、神尾は訳が判らず身体を竦ませる。。
 長いことキスで塞がれていた口腔は潤んでいて、跡部に舌を摘ままれて引き出された反動で飲みきれないものが零れてしまう。
 唇の端から喉を伝う感触に神尾が震えると、いきなり噛み付くように唇が塞がれた。
 また、深くて濃いキスだ。
 長くて執拗で身体中バラバラになりそうなキスをされる。
「……ん、…、ゃ…、」
 外気に触れてこわばるようにかわいた神尾の舌は跡部に執拗に絡めとられた。
 濡れた音をたてて舌が交わる。
 唇が、粘膜が、こすれる。
 膝が、かくんと砕けた。
 座り込んでしまった神尾を今度は床に押し付けるようにして跡部も膝をつく。
 唇がずれて、また零れて、濡れて。
 汚れた口元を神尾が手の甲で拭おうとすると、手首をきつく握り込まれて顔の横で拘束される。
 挙句にまた跡部の指は神尾の口腔に入ってきて、舌を弄る。
「なん、っ…なんだよっ……」
 半泣きで神尾が声を上げると、細めた目でまじまじと神尾の舌を見ていた跡部が皮肉気に唇の端を引き上げた。
「どういう舌してんだお前」
「、ど……ゆ…って……」
 何を言われているのか判らない。
 でも、跡部の低い声だとか鋭い視線だとかに反応するかのように、神尾の声は弱く消え入っていく。
 とんでもないことを言われてしまうのではないだろうかと神尾がうっすら思った通りに。
 跡部は神尾の舌をつかまえてぬめった指先で、神尾の唇も挟み、触れる側から唇を寄せてきた。
 舌で舐められる。
 すでにもうキスではない。
 口腔の粘膜を、体内を抉るようにして弄られているのと同じだ。
「ヤ……だ、…、…も、いじ…んな……っ…、」
 神尾は涙目で首を打ち振るのに、跡部はまるで夢中になっているかのように神尾の唇を塞ぐ。
 舌を食み、とろとろとひっきりなしに神尾の口の中を濡らしながら唇を犯す。
 しまいには啜り泣くような声を神尾が上げ出しても跡部はそれを止めなかった。
 神尾はしゃくりあげながら跡部の背中のシャツを掴む。
 もう、口が、キスをするだけの器官だとしか思えなくなって、言葉も紡げなくなった。
 声もなく泣いて、びくびくと幾度となく肢体を震わせた神尾に、どれほどキスをしてからか、跡部が唇を離して抱きこんでくる。
 今頃になって、宥めるように背筋を軽く撫でられた。
「止めんのも一苦労だぜ。……ったく」
 半ば詰るように言われた言葉も理解が出来ない。
 神尾は空ろに跡部を見上げた。
 視線が合うと跡部はどことなく不機嫌そうでいながらも、今度は触れるだけのキスを神尾の瞼に落としてくる。
 ひくりと慄いた神尾の身体を強い腕で抱きこんで、跡部ははっきりとした溜息と共に悪態をつく。
「お前の中は、どこもかしこも甘ったるくて腹立つんだよ」
「………あとべ…」
「頭の中も、口の中も、身体の中も」
 嵌って、のめり込んで、抜け出せないじゃねえかと。
 苦しがるみたいに言われて、神尾はうろたえる。
 どうして、と懸命に跡部を見上げていると、跡部は神尾を抱き締める腕を一層強くして神尾の視野を奪ってしまう。
「全部寄こせ」
「…跡…部?」
「全部だ。全部、俺に寄こせ」
 暴君が、まるで懇願するかのように告げてくる。
 その呻き声に、感情が揺さぶられる。
 神尾は黙って跡部の背中を抱き締め返した。
 横暴に、神尾を、奪うだけ奪うくせに。
 それでもまだ足りないと、奪えないものがあるのだと、それを、結局は切願してくる声に、態度に。
 浮かされて、溶かされて、神尾は跡部の背中を抱きしめ返すのだ。
 いつも。
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 鳳の家の玄関で、靴を履き終わり帰ろうとしている宍戸と見送りに出ていた鳳は、顔を見合わせるなり、ふと口を噤んでしまった。
 それまではあれこれと他愛無い話をしていたのだけれど。
 同時に黙ってしまって、そのまま数秒。
 鳳の手が伸びてくる。
 宍戸の首の後ろに、手がかけられる。
 大きな手のひらと、長い指。
 そのまま引き寄せられるのが判って、それが嫌だった訳でも怖かった訳でもないけれど、宍戸は唇を避けた。
「………………」
 避けた、行先は眦に。
 鳳の目元に宍戸から口付けて、少し爪先立って、目を閉じる。
 すぐに背中を抱かれた。
 背筋が反る。
「宍戸さん」
「………………」
 少し顔を動かして、宍戸の耳の下、顎に繋がる骨の上に鳳はキスをした。
 同時に首の裏側の皮膚を撫でられる。
 存在を知らなかった残り火を焚きつけられたようで、宍戸は息を詰めた。
 小さく慄いて、うつむいて、また顔を上げて。
 目と目が合う。
 こうなったら、もう駄目だ。
 結局唇と唇で近づいていく。
 キスをする。
 数回、繰り返し、深くなる寸前、僅かな隙間で宍戸は呟いた。
「……帰れなくなるって…」
 もう勘弁、と。
 珍しいと自覚する泣き言を口にすれば、鳳もまた珍しく、少し強引に宍戸の唇を塞いできた。
「………っ……ぅ…」
「………………」
「ン…、……、…」
 舌と舌が密着して濃厚に繋がってしまう。
 腰を抱かれて、唇がやわらかくすきまなくかみあって、中から濡れてくる感触に膝が震え出した。
「……長、太郎…、…っ」
 息を継ぐために離れた合間で名前を呼ぶと、鳳は少し辛そうな目をして動きを押しとどめ、宍戸を見つめてきた。
「………、っ」
 舌で、濡れた宍戸の唇の表面を舐め上げてくる。
 欲望の明け透けな鳳に、宍戸の脚は一層震えて止まらない。
「やっぱり送っていきます」
 呟く声に、ぞくりとしながら。
 宍戸は鳳の胸元に顔を伏せる。
 きりの無い恋情に、流されてしまった方がいっそ楽なのかもしれない。
 でもそう出来る事の方が少ないから苦しい。
「……外でこんな真似出来ねえだろ」
 鳳の送られたとして、別れ際には、また。
 今と同じ気持ちになるのだろう。
「宍戸さん」
 強く抱き締められて、ほっとする。
 同時に、もっとと、欲しもする。
「たしなめる方も、いい加減しんどいんだからな」
 年上だからと思って言うのだけれど。
 望んでいるのは、自分だって同じ程。
 恨み言を鳳の胸元になすりつけてやれば、ぽつんと鳳が低く小声で囁いてくる。
「ちょっとは、そそのかされてくれたらいいのにって思うんですけど」
「人の努力をぶち壊そうとすんな、アホ」
「なるべく普段は精一杯に聞き分け良くしてる反動です」
 ああもうかわいい。
 宍戸は心中でがなるように思う。
 強い腕で優しく抱きこんできて、言葉遣いを崩す事も無く、滑らかに甘い声で、ぐずる年下の男の我儘なら。
 いっそ何でも聞いてやりたいと思うけれど。
「長太郎」
 ほら、と広い背中を軽く手のひらで叩くと、鳳は宍戸の肩口から視線を引き上げてきた。
 その唇に、頬に、目元に。
 浅く口付けてやって、宍戸は囁いた。
「明日な」
「………………」
 鳳が宍戸の右手を取る。
 手の甲を親指の腹でゆるく撫でさすってから、指先を支えて爪の上に口付けてくる。
 綺麗な仕草で、爪先に灯る熱。
 感じ取って、感じ入って、浮かされる。
「………………」
 宍戸の指先に唇を寄せながら、鳳は眼差しを上目に引き上げて、唇を動かした。
 声にはしない言葉に指で触れる。
 好きだ、と動いた唇と。
 煮詰まった熱を湛えた瞳。
 だからもう、と泣き言を言いたい気分で宍戸は背中を向けるのだ。
 甘ったるい余韻が色濃い指先を握りこんで。
 明日までどうしたらいいのか、本気で思い悩むような濃い想いに雁字搦めにされたまま。
「………………」
 鳳の家の扉を閉めて、ドアに一時背中を当てて寄りかかる。
 冬の夕刻の外気に吐息をこぼすと、白く煙るようにそこだけ色が変わった。
 意識も何もなく、宍戸は右手の指先を唇に押し当てて目を閉じた。


 もう本当に、どこかでどうにかしないといけない、そう思うほどに高まっていくばかりの感情。
 でも、どうにかできるのならば、とうにしている筈だと、判ってもいるから身動きもとれない。
 ずっと、ずっと、二人して。
 自分達は甘苦しい坩堝の中に在るのだ。
 ずっと、ずっと、二人して。
 嘆くに嘆けないといった有体で暫くうろうろと部活が始まる寸前のコート近辺を歩き回っていた菊丸が、いかにも憂鬱そうな溜息をつくなり走り出した行先は、不二の元だった。
「不二ぃー!」
「うん? どうしたの英二」
 コートの隅に座って予備ラケットのグリップテープを巻き直していた不二が笑みを浮かべながら顔を上げると、菊丸は不二に対峙するように勢いよくその場にしゃがみこむ。
 小さくなったその体勢で、視線だけを引き上げて。
 菊丸は思いきりひそめた声で言った。
「今週もやっぱりなんですけど…!」
「ああ…海堂?」
 不二も小声で問い返す。
 二人の三年生の視線の行先は、話の矛先である後輩へと流されている。
「………………」
 見据えられている海堂は、同学年の桃城といつものように小競り合いを繰り交わしていて、まるで気づいてもいない。
 慣れた光景である彼らの怒鳴り合いの様子を横目にしながら、困ったねと不二が淡く苦笑した。
 不二もすでに気づいていた事を、菊丸が、ぷうと頬を膨らませて改めて言い放つ。
「やらしいなあ、もう!」
「確かにああいうのってやらしいかも」
「ちょっと乾にひとこと言った方がよくない?!」
「うーん……乾が気づかない訳ないから、案外わざとかもよ。英二」
 サイアクじゃんそれと泣き言気味に怒る菊丸が、先々週の月曜日に気づいた。
 海堂の、掠れ声。
 どうしたの海堂!声掠れてるけど風邪?と彼の背中に飛びついて聞いた菊丸は、至近距離から見てしまったのだ。
 菊丸を振り返りながら、喉元に手をやって、一瞬後に喉を詰まらせた赤くなった海堂を。
 風邪かとは聞いたものの。
 海堂の掠れた声にはほんのりと気だるさも交じっていた。
 婀娜めいた声に後から思い当たったような気持ちで。。
 感の良い菊丸はパッとそこから飛びのいて、お大事ににゃ!と錯乱気味の声をかけて不二の元へダッシュした。
 大石だと胃を痛めかねないのでと菊丸が選択した相手は流石で、週末は泊まりだったんだろうねえとやんわりと微苦笑を浮かべていた。
「先週もだし、今週もだし! 月曜の海堂は掠れ声! 何をやらかしてんだよ乾の奴はー!」
 憤慨する菊丸と向き合っている不二は、小さく声を上げて笑い出した。
「海堂絡みだと、ほんと乾に突っかかるね、英二は」
「だってさあ…! 乾の奴、薫ちゃん独り占めすんだもん」
「自分にはあんな風に懐いてくれなかったのに?」
 そうだよっ、と菊丸は逆毛立つ猫さながらに言った。
 年上や同級生には構われたがりの菊丸は、年下相手だと、急に庇護欲が姿を現すようだった。
 気ままなようでいて後輩の面倒見も良いし、進んで年下の集まりの中にも入っていく。
 菊丸が、構いたいと決めた相手には尚更で。
「確かに桃や越前みたいにはいかなかったね、海堂は」
「そだよ。でもさ、別に俺にだけに懐いてくれないっていうんじゃないからしょうがないって思ってたのにさ! なーんで乾に、あんなに懐いちゃったのさー」
 ひどい話だろー、と不平たっぷりに頬を膨れさせる菊丸の頭上に、ぽん、とノートが乗せられる。
「んにゃ?」
「あ、乾」
 逆光で菊丸の背後に立った男の名前を不二が口にすると、菊丸は物凄い勢いで立ち上がった。
「ちょっと乾! 毎週毎週海堂の声嗄らせてんなよ!」
「大きな声を出すな英二」
「………なに、その声」
 ん?と菊丸が眉根を寄せる。
 座ったまま二人を見上げていた不二も僅かに首を傾けた。
 掠れた声。
 乾もまた。
「今週は二人して本当に風邪でもひいたわけ?」
 低くよく響く乾の声が、殊更ハスキーに嗄れていて。
 菊丸がふと、態度を軟化させて問いかけると、乾は真顔で言った。
「んー…海堂の名前呼びすぎたかな…」
「……ッ……死んでしまえ……!」
 ギャー!と喧嘩上等の猫よろしく叫んだ菊丸と、大きな溜息をついた不二をその場に残して、乾は桃城との喧嘩が一段落したらしい海堂の元へと向かう。
 海堂は菊丸の絶叫にびっくりした顔をしていた。
「どうしたんっすか…菊丸先輩」
「さあ? 熱っぽいみたいだね。顔も赤いし」
 途端に心配そうな目で菊丸を見やる海堂に、乾はそっと囁いた。
「海堂は? 喉、平気?」
「……、…別に」
 指の先で触れるか触れないか。
 海堂の喉元に宛がった乾の指先にあたる、息をのむ僅かな振動。
 可愛いと思って乾が見下ろしていると、海堂は勝気な眼差しで睨み上げてきた。
「……先輩のが酷いだろうが」
「海堂の名前呼びすぎたかな?」
 先程口にしたのと同じ言葉。
 しかし海堂は、菊丸が叫んだようにはならず、ぐっと言葉を詰まらせ顔を背けながら呻くようにして言った。
「…………呼びすぎだ」
「海堂の頭の中に少しは詰め込めたかな」
 前髪の先を一束つまんで、バンダナ越しに小さな後頭部を手のひらに一瞬包む。
 打ち合わせをカモフラージュさせる手持ちのノートをうまく使って、周囲に注目させないように海堂に触れている乾に、海堂からは非難の眼差しが差し向けられるけれど。
「……まだ残ってる? 俺の声」
 海堂?と直接耳元に囁くと。
 びくりと甘く竦んだ海堂が、乾の元から走り去っていってしまった。
「ああ、逃げられた」
「不二。人の背中に隠れて立ち聞きってのはどういう了見だ」
「相手が僕で、それを海堂が気づいていなければ、乾的には何も問題ないよね」
「まあ確かに」
 自分の背後から、ひょいと姿を現した不二を、乾は斜に見やって吐息を零す。
「誇示欲相当強かったんだね。乾」
「相手が相手だから必死なだけだよ」
「あそこまで懐かれてまだ足りないかって、英二が怒るよ。そんな事言ったら」
「ただ懐かれたい訳じゃないんでね。俺は」
 英二と違ってな、と苦笑いで肩を竦めた乾に不二は丁寧に頷いた。
「大事にね。乾」
「当然だ」
 乾が、事と次第によっては容易く高まる衝動と焦燥を、慎重に制御しようとしている事は不二にも伝わっているようだった。
 一見希薄そうに見える乾の執着は、行先が一度定まってしまうと、もうずれない。
 外れないまま、深くなる。
 強くなる。
 見目では決して気づかせないが、情の濃い海堂はそんな乾の深く強い愛着をもあっさりのみこんでしまうから尚更だ。
 考え事に没頭し出した乾に慣れた不二は、じゃあねと言って場を離れていく。
 乾は嗄れた自分の声で、小さく笑う。



 名前を、思いを、海堂に詰め込みたかったなんて、体裁のいい言い訳だ。
 名前を、思いを、吐き出さないと、どうしようもなくなっただけの話だ。
 パソコンに向かっている跡部の背中に、神尾がいきなり覆い被さってきた。
 たいした衝撃ではない。
 こいつは軽い、こいつは小さい、そんなことを跡部がはっきりと体感するだけだ。
「何だよ」
 跡部はモニターから目線を外さずに問う。
 きゅっと神尾の腕に力が入る。
 実際の所首元を絞められているに等しい体勢だが、それにしてはやけに接触が擽ったいので跡部は溜息をついた。
「…十秒」
 だけ、と語尾が小さくなる声に跡部は呆れた。
「ふざけたこと言ってんじゃねえ」
「………ぅ……、じゃ…五秒…」
「減らしてどうすんだ馬鹿」
「…え?」
「珍しく懐いてきやがったんなら、これが終わるまでそうしてろ」
 指先でひっきりなしにキーボードを叩きながら跡部が言うと、神尾は情けない声を出して跡部の肩口に顔を伏せた。
「ああ? どういうリアクションだ。それ」
「だめだ。恥ずかしすぎる…」
 ずっとは無理だよぅ、だの。
 十秒が限界だよぅ、だの。
 腹の立つ泣き言を耳元で聞きながらも跡部が怒らなかったのは熱の上がった軽くて小さな身体が、ちゃんと自分の首に腕を絡めて抱きついたままでいるからだ。
「神尾」
「…なんだよー」
「カイロの役目まで担うとは、てめえにしちゃ気が利いてるじゃねえの」
 少し熱すぎるがなと跡部が付け足せば、神尾はやけっぱちに跡部の首筋に額を押し当ててきた。
「ほっとけよぅ…!」
 熱い。
 移される。
 跡部は溜息をついた。
「おい、そこのモニターの横の丸い缶開けろ」
「…へ?」
「それだ」
 赤い、丸い、アルミ缶。
 ハンドクリームやメンタム缶の容器を大きくしたようなサイズのそれに、神尾は跡部の背中に覆い被さったまま手を伸ばした。
 それを眼差しで確認して、跡部はあと少しで終わる文書を片付けるべくピッチをあげる。
「…あ、チョコレートだ」
「カカオ含有率五十八%」
 眠気覚ましとして外国のドライブインでは必ずそれを売ってる。
 跡部が言うと、神尾は円形を均等に八等分したそのチョコレート、ショカコーラを一つ指先に摘まんだ。
「…で、…これ…どうしたら…?」
「どうしたらいいと思う」
 今日はバレンタインデーだ。
 バレンタインデーにチョコレートときたら。
「ええと……」
 いつも跡部が食べているチョコレート。
 特別に用意したものではないチョコレート。
 神尾は少し悩んで。
「跡部に…俺が食わせりゃいいの?」
「まあ、二番目に良い答えだな」
「えー、二番かよ。じゃあ一番良い答えって何?」
 跡部の背後から、神尾は跡部にショカコーラを食べさせながら聞いてくる。
 跡部は舌の上でほろ苦いそれを溶かしながら言った。
「残りはてめえが食え」
「それが一番良い答え?」
 いかにも不思議そうな神尾に、跡部は短く笑った。
「眠気覚ましチョコレートっつったろうが」
 事前に食っとけ。
 寝かさねえから。
 モニターを見据えたまま跡部が告げると、たちまちくたくたと力の抜けた神尾の唇からは先程の比ではない泣き言が止め処もなく零れまくった。
 それでも、跡部の作業が終わるまで神尾は跡部の背中に貼りついていたので。
 跡部の機嫌はすこぶる良かった。
 さっさと食って待っていろと思う。
 寝ない夜の為の、ショカコーラ。
 学校に向かう道のりで、何で昨夜が『帰さない日』だったのかを宍戸は考えている。
 宍戸の隣を歩く鳳は、それはもう判りやすく、宍戸が怒っているのか怒っていないのかを、じいっと宍戸を見つめて悩んでいる。
 昨日はえらい強気だったくせしてなあ、と宍戸は唇の端を引き上げつつも肩で息を吐く。
 それを見た鳳が、ゴメンナサイと実に素直に頭を下げるものだから。
「お前さあ……何をそうしょぼくれてるわけ?」
 宍戸は笑いながら聞いたのに、鳳はますます申し訳なさそうに肩を落としてしまう。
 背が高く、バランスの良い長い手足と、綺麗で明るい笑い顔。
 優しい物言いと丁寧な所作で、その場にいるだけで人目を集める鳳は、今春には宍戸と同じ高等部に上がってくる。
 鳳が新入生の時から知っている宍戸からすると、よくもここまで大人びたものだと思う見目なのに、何故か宍戸といる時は、時々こんな風に頼りない顔をする鳳だ。
 かわいいよなあと宍戸はぼんやり思う。
「昨日は、帰さないって強引だったのになあ?」
「……すみません」
「謝るかそこで」
「辛くない…?」
 ひっそり問われて、距離も近くなって。
 大きな手のひらが腰に回るものだから。
 宍戸は歩きながら片肘で鳳を押しやった。
「朝っぱらから往来でそういう事言うんじゃねえっての」
「……平気ですか?」
「平気なわけあるか」
 昨日はいきなりの誘いで、元々泊まる気のなかった宍戸が少々駄々をこねたせいなのか、ベッドに雪崩れ込んでからの鳳は執拗だった。
 正直、重だるい腰と芯の抜けたような下半身の違和感は強かった。
 でもまあたまにはいいよな、と宍戸は思っている。
 自分がどれだけ鳳にベタ惚れか自覚している宍戸は、多少鳳が暴走がしても、それが嬉しかったりする自分を認めている。
「なあ。何で昨日だったんだよ?」
「……宍戸さんを帰れなくしたのがですか?」
 そういう風にわざわざ言葉を置き換えなくてもいいだろうがと呻きながら、宍戸は、ああそうだよと自棄気味に言った。
「今晩そうすりゃ、日付け代わったらお前の誕生日だし。明日なら明日で、誕生日の最後まで一緒だったんじゃねえの?」
 今日は二月十三日。
 だから、どうして昨日あそこまで鳳が強引だったのかが不思議でならない。
 歩きながら横目でちらりと宍戸が見やった鳳は、甘い造りの顔をしっかりと宍戸へ向けていた。
 前見て歩けと宍戸は再び肘で鳳を押しやったが、普段従順な年下の男は、こういう時は全然宍戸の言う事をきかない。
 あのー、と控えめながらも意見までしてくる。
「俺別に誕生日が特別って訳じゃないんですけど」
「ん?」
「俺が宍戸さんと一緒にいたかったり宍戸さんを欲しがったりするの、それが二月十二日でも良いじゃないですか」
「そりゃ……まあ、…いいけど」
 誕生日は、やはり特別なんじゃないかと思ってしまうから、不思議だっただけの話で。
 確かに宍戸だって、そういうのはいつでもいいと思う。
「それに宍戸さん、十四日って、あんまり俺と会ってくれなかったじゃないですか」
「は?」
「学校で」
 去年の事を言われているらしかった。
 宍戸は、そりゃ当たり前だろ、と自分よりもかなり背の高い後輩を見上げる。
「朝も昼も夜も、お前の周り女の子だらけなんだから」
「大袈裟です」
「大袈裟なわけあるかよ。とてもじゃねえけど、あの中に割り込んでく気力ねえよ。俺には」
 鳳を取り囲む女の子達というのは大半は品が良いので争奪戦といった雰囲気ではないのだが、それにしても女性陣の一大イベントであるバレンタインデーと好きな相手の誕生日が同じ日であるというのは、相当な状況になる。
「………ああ? もしかしてお前、明日一緒にいない時間の分、昨日とったわけ?」
「そうですよ」
 ふと思い当たった事を宍戸が尋ねれば、あっさりと鳳は頷いた。
「どうして今日じゃなくて昨日?」
「今日だと、明日が誕生日だからって事になるかと思って」
「……やなの? それ」
「さっきも言いましたけど、誕生日だけ欲しい訳じゃないんで」
「でも、誕生日も、欲しいんだろ?」
「はい」
 我儘の言い方が可愛すぎるだろうと宍戸は頭を抱えたくなった。
「………ちょっとは、まあ、判るけどよ」
「何がですか?」
 小さく呟いただけの宍戸の言葉を、鳳は正確に拾った。
 宍戸は溜息交じりに鳳の顔を見据える。
「あー……ちょっとここで待ってろ」
「はい。……宍戸さん?」
 不思議そうな鳳を置いて、宍戸は歩いてきた道路の向こう側に渡った。
 そこにあるのは判っていたので。
「宍戸さん」
 言われるままに足を止めていた鳳だったが、宍戸が反対側の歩道から道路を渡ってくるなり、すぐに足早に歩を進めてきた。
 宍戸は向こう側の道にあった自動販売機で買ったドリンクを鳳に差し出す。
「バレンタインデーじゃねえよ。それでもいいならやる」
 ホットの『くちどけココア』のアルミ缶を突き出すと、鳳は数回瞬いた後、それこそとろけるような笑顔を満面に浮かべた。



 誕生日だからじゃない外泊。
 バレンタインデーだからじゃないチョコレート味。
 二月の詐術は、甘く欺け。
 乾の言葉はいつもながら完璧だった。

「受験前の大切な時期に、外泊だなんて厚かましいお願いをしてしまって本当に申し訳ありません。海堂君ならば全く問題ないと思っているんですが、僕も昨年同じ試験を受けましたし、もしよかったら少しでも彼の参考になればと思いまして」

 昨年の問題だけでなく、ここ数年分の青春学園高等部の試験問題を纏め上げたファイルを持って迎えに現れた乾を、受験シーズンの外泊なんてと咎める人間が海堂家にいる筈も無かった。
 手放しの感謝と喜びようで母親に差し出された海堂の心中は複雑極まりなかった。



 口に出した事は実行する。
 一見口数の多い乾だが、実際は黙さず語らずという面が多々あって、だからこそ己の行動をきっぱりと口に出した時は必ずそれを実行する。
 乾の部屋で、予備校もかくやというような完璧な受験対策を教えられた海堂は、改めてこの人はとんでもないなと思った。
「さっきも言ったけど、海堂の受験に関しては俺は全く心配してないからね。余計な事したかなあともちょっと思ってる」
「や、…とんでもないです。ほんと助かりました」
 ありがとうございます、と海堂は座ったまま乾にきっちりと頭を下げた。
 一年前、初めてダブルスを組んだ時から、乾に教わる事というのはどれも海堂の頭にきちんと入って消えない。
 テニスにデータだなんて、自分には絶対出来ない事だと思っていた海堂に、筋道立てて端的に戦術や統計を教えた乾だ。
 受験対策と称したこの数時間の充実ぶりは本当に凄かった。
 今日乾の両親が仕事でいない事は判っていたので、海堂の母親が持たせた重箱のお弁当で夕食を済ませ、過去行われたテニスの大会のDVDを観たり、ここ最近の近況ともつかないような他愛ない話をしたりした。
 高等部に上がってからの乾は、夏くらいまでは本当に多忙だったようで、時々疲れた顔を見せていたけれど、また隠れて独自にメニュー組んでるなと察した海堂は何も言わないでいた。
 乾の秘密主義は今に始まった事ではない。
 夏が過ぎた頃にはすっかりペースを作ったようだった。
 ちょうど海堂もそのくらいまでは最高学年になった部活動で忙しい毎日だったので、秋くらいからまた二人で会う時間が増えてきた。
 そうこうしているうちに海堂の受験の時期になり、長いと思っていた一年は結構早く時間が過ぎていく。
「とりあえず様子見ながらでもいいからさ。ゆくゆくはダブルスでよろしくな」
「………絶対俺と組めくらい言え」
「海堂が言ってくれると思って遠慮したんだけど?」
 風呂に入り、、髪がかわいた頃を見計らってベッドに入る。
 布団敷こうか?と乾が言ったのに海堂は首を振った。
 左右にだ。
「敷く素振りも全然見せないで、よく言うっすね……」
 呆れた海堂を片腕で抱き込んで横たわった乾は笑っていた。
「まあまあ」
 唇に重なるだけのキスが触れる。
「…………しないんですか。本当に」
「万が一にでも具合悪くさせる訳にはいかないだろ」
 先週はスミマセンと笑う乾に、さすがに海堂は赤くなった。
 暫くできないからと羽目を外したのはお互い共で、あれは完璧に連帯責任だろう。
「受験終わるのを、本当に心待ちにしてるよ」
「……恥ずかしいこと真顔で言わないでくれますか」
 早く電気を消してくれと海堂は思った。
 早く寝てしまおう。
「あ、そうだ。せっかくだからバレンタインしようか、海堂」
「…は?」
 ところが電気を消してからいきなり乾がそんな事を言い出してきて、海堂は面食らう。
 確かに明日はバレンタインデーという日ではあるのだが。
「乾先輩?」
「口あけて。海堂」
 ベッドに仰向けに寝たまま、海堂はこの暗がりで乾が何をし出すのかと困惑する。
 ベッドヘッドに置いてあったらしく、何かのパッケージを破る音が頭上でする。
 まだ目が慣れないでいる海堂は、唇に何かを入れられた。
 乾の指先が唇に触れている。
 味は、チョコレート。
「歯医者さんが作ったチョコレート」
「……え?」
「噛んじゃ駄目だよ。海堂。舌の上でゆっくり溶かして」
「………………」
「キシリトール配合でね、寝ている間に作用する、夜ベッドで食べるチョコレート」
 低い声での説明と一緒に、海堂は唇を塞がれる。
 軽いキスだけれど、甘い。
 優しい触れ方だった。
「………あんたは?」
「今口に入れた」
 そうして乾は海堂と身体を並べてベッドに横になる。
「なあ、海堂」
「……なんですか」
「セックスしなくても、ベッドの上で口の中が同じ味ってのは結構卑猥だなあ……」
「………っ…、……そういう事を口に出して言うな…っ」
 喋る度に感じるチョコレート。
 同じ味。
 お互いの口腔の味。
 チョコレートを食べながら眠るなんていう初体験を海堂がした二月十四日の事だった。
 学校からの帰り道に待ち合わせた跡部と、駅の構内を通り抜ける際に、ある機械を見かけて神尾は足を止めた。
 思い出した。
「跡部、悪い。ちょっと待って」
「ああ?」
 少し先を歩いていた跡部の制服の裾を握り締めて引っ張る。
 即答された低く呻くような口調ほどはガラの悪くない眼差しが跡部の肩越しに神尾へと流されてくる。
 神尾は空いている手で、目に留まったその機械を指差して、跡部に言った。
「俺、証明写真撮らなきゃいけなかったんだった」
「……普通に喋れ」
「喋ってんじゃん」
 ちょっと付き合ってくれようと跡部の制服の裾を尚も引張ると、思いのほかあっさりと跡部は神尾の後についてきた。
「受験用かよ」
「そ。この間学校でも撮ったんだけど一応予備も用意しておけって」
 受験する学校がいきなり増えるかもしれないし、受験票から剥がれる事もあるかもしれないし、と神尾は一つずつ指を折りながら話し、証明写真の機械と向かい合う。
 駅の地下構内の片隅。
 証明写真を撮る以外に用はない為か、すぐ後方の雑踏とは違ってやけにその場は静かだった。
 神尾は箱型の機械の外側についている鏡に向かって、適当に髪を整えた。
 元々癖のない神尾の髪は寝癖に悩まされる事もない。
 財布から小銭を浚って、さっさとすませてしまおうと神尾がカーテンに手を伸ばした所で、肩を引かれた。
「お前、本当に受験生の自覚あんのかよ」
 呆れ返った跡部の言葉に神尾は背後を振り返ろうとしたが、振り返るまでもなくそのまま引き戻されて再び向き合うことになった鏡の中に。
 跡部の顔も一緒に映りこんだので。
 そのまま前を見据えて神尾は鏡の中に問いかけた。
「へ? なんで?」
 跡部はといえば、それはもううんざりとした表情で嘆息している。
「頭の出来が微妙なんだから格好くらいまともにいけっての」
「し…っつれいな奴だなー…」
「俺様は間違った事なんざこれっぽっちも言ってねえがな」
 うう、と唇を噛んで、鏡に映っている跡部を睨みすえた神尾だったが、跡部は一見軽薄そうな薄笑いを返してきただけだった。
「………………」
 高校に上がってから、毒のある美形に一層磨きのかかった跡部は、後は無言で。
 神尾の髪に長い指先を沈めてきて、髪を流し、毛先を作る。
 簡素な鏡の中、跡部は僅かに細めた目で神尾を見据えながら、神尾の制服の襟元も整える。
 綺麗な指で、そしてふいに、にやりと笑う。
「どうした? 顔赤いぜ?」
「………、…うるせえ…」
 身長差がまた広がってきているので、跡部は上体を屈めるようにして神尾の耳元で囁いてきた。
 ん?と促す吐息は笑み交じりで、神尾は声にならない声で悪態をつくしかない。
 やらしい顔しやがってー!とか。
 やらしい目で見やがってー!とか。
 やらしい触り方しやがってー!とか。
 やらしい、つまりそれだけだった、神尾の言いたい事は。
「いい具合にエロい感じになったんじゃねえの」
 それこそ卑猥な低音で囁いてきた跡部の指先は、どういう意味だと神尾が噛み付くより先に、駄目押しと言わんばかりに親指の腹で神尾の唇を少し強めに擦ってきた。
 痛いような感触の後に、神尾の唇に濃くなった血の気の色がつく。
「ばっ、ばっ、馬鹿か跡部っ!」
「ああ?」
「……、っじゅ、受験用の写真、撮るんだ俺はっ! エロとか言うなっ!」
「そうかよ。それなら早くしろよ、お前。俺様を待たせるなんざ百万年早ぇよ」
 神尾を無造作に証明写真の箱の中に押し込んだ跡部は、それでも手早く椅子の高さを調整し、神尾の手から小銭を奪い、硬貨を入れるなりカーテンを閉めて外に出た。
「いいか。早くしろよ」
 声だけが外から聞こえてきた。
「こ…っ……こういうのはなっ、撮る前にそれなりの気持ちの準備ってもんが…っ……」
 そんな事を言った所で、跡部に通じるわけがない。
 しょうがない。
 相手は暴君だ。
 神尾はそう思い、半ばやけっぱちで姿勢を正した。
 撮影開始のボタンを押す。
 ガラス板の向こう側は黒くて、ガラスに映りこんだ自分を見て、色味など判りもしない筈なのに、うわあやだこれ、と神尾が思った時にはシャッター音だ。
 唇どころではない。
 顔が真赤だ多分。
 神尾は確信した。
「終わったんなら、さっさと出て来い」
 カーテン越しに、外からすぐさま跡部の声がした。
 機械の自動音声は撮り直しの有無を尋ねてくる。
 ああもうっ、と神尾は呻いた。
「こんなんでいい訳ないだろっ……撮り直す!」
 そう叫びながら神尾が再度ボタンを押すと、いきなりカーテンが開いた。
「…っな…、…!」
「………………」
 突然の事に心底驚いた神尾が、逃げられる訳もないのに咄嗟に右肩側の壁に身を引くと、狭い個室の中に強引に割り込んできた跡部が、後ろ手にカーテンを締め、空いた手で神尾の後ろ首を掴んできた。
 大きな手のひらは容易く神尾の後ろ首を鷲掴み、親指の先で器用に神尾の顎を上向きに角度づけて固定する。
「……っ、ン…」
「………………」
「………ん……んっ」
 何の手加減もない濃厚なキスに唇を塞がれ、神尾が大きく目を見開いてしまった時だ。
 機械からのシャッター音がした。
「ン…っ…?…ん?…、…ぇ…っ…?」
「おら、出な」
「…………、…っとべ……っ、おま、…っ」
 強引に腕を掴まれ引っ張り出される。
「信じらんね……ッ! お前、最悪…っ!」
「逃げたけりゃ?」
 好きにしな、とでも言うように駅の雑踏に向かって顎で促してくる跡部に、つい激情のまま乗せられそうになった神尾だったが、その後に続いた嘯く跡部の言葉に、はっと息をのんで走り出すのを思いとどめた。
「最高の証明写真が出来たんじゃねえの?」
「……うあっ…写真…っ!」
 そうだあんなもの残して行けるわけがない。
 まだ機械から出てこない写真に、神尾は慌てふためいた。
 それを跡部は笑って見ている。
「有難く使えよ」
「使えるか馬鹿っ」
「ご利益あるぜ」
 早く出て来いよっと機械に叫び、跡部には馬鹿馬鹿馬鹿っ!と連呼した神尾は息も荒く涙目だ。
 長い長い数分を経て、証明写真が落ちてくる。
「あ、ばかっ、返せっ」
「まあ…それなりに良い出来じゃねーの」
 神尾の数倍手早く、跡部が人差し指と中指で挟み込んで奪った証明写真は、完璧にフレームインしたキスシーンが写っている。
「何でそれ跡部が持ってくんだようっ!」
 指に挟んだ写真をひらひらと肩の上で揺らしながら跡部が歩き出す。
 神尾は一瞬の間の後、ダッシュでその背を追った。
「そんなにこいつを履歴書に貼りたかったか。お前は」
「ちが…、っ…、……んなわけあるか…っ」
「いらねえんなら俺が貰う」
 あまりにも楽しげに、跡部はそんな事を言って、神尾を絶句させる。
 お願いです返して下さいと、今なら頭を下げることも出来ると神尾は思った。
 それは本当に、恥ずかしい代物ですからと、神尾は跡部に奪われた証明写真を恨めしく見据えて思う。
 だってそれは、つまりはそう。
 証明写真だ。
 正真正銘の。
 いきなり宍戸が地面に片膝をついたので、鳳は大袈裟でも何でもなく、飛び上がらんばかりにして驚いた。
 自分の足元に屈んでいる宍戸を、鳳は愕然と見下ろした。
「し、…宍戸先輩?」
「お前、シューズの紐ほどけてるぜ」
「、え?……や…、…自分でやりますから…!」
「両手塞がってんだろうが。いいからおとなしくしてろ」
 凄まじく切れ長のきつい眼差しで下から睨み上げられた。
 下級生の鳳としては逆らうわけにはいかなかったが、だがしかし、それこそ目上の人間を、それも数百名いる氷帝テニス部員の中で準レギュラーに位置づけている相手を、足元に屈みこませていていい筈もない。
 あまつさえシューズの紐まで結んでもらっているようでは、正直生きた心地がしなかった。
 両手をテニスボールがいっぱいに入っているカゴで塞がれている鳳は硬直したようになって、己の足元にいる相手を見据えるしか出来なかった。
 長い髪を無造作に括っている二年生の宍戸とは、あまり話をした事はなかった。
 同じテニス部員であっても、準レギュラーであるというだけで、相当遠い位置にいるような相手だ。
 そのうえ宍戸という男は、気が荒く口が悪く目つきが鋭いので有名で、下級生達は取り分け彼を遠巻きにしている所があった。
「………………」
 けれど、今鳳の視線の先にいる彼は、ラインの綺麗な首筋を無防備に晒して、下級生の、実力的にも対等でもない人間の足元に膝をつき、靴紐を結んでくれている。
「出来たぜ。鳳」
「あ、…りがとうございます」
 名前を呼ばれてますます鳳は驚いた。
 歯切れの良い声で口にされたのが自分の名前であると判るのに一呼吸分かかってしまったくらいに驚いた。
「気をつけな」
 にこりともしないで、立ち上がるなり背を向けた宍戸が残した言葉を。
 声を。
 鳳は頭の中で繰り返し繰り返し反芻した。
 それは去年の、春の話だ。



 ああ覚えてる、と宍戸は言った。
 鳳の胸元に持たれて床に座っている宍戸は雑誌をめくる手を止めて、肩越しに視線を上げてきた。
 宍戸の背後に居る鳳を直視して、思い出したように溜息をつく。
「えらいサービスいいじゃねえかって散々に言われたからな」
「それは……」
「跡部だろ。忍足だろ。岳人、滝、……要するにあいつら全員。雨が降るだの槍が降るだの。揃いも揃って勝手な事言ってきて、うるせえのなんのって」
「……だったんですか?」
「だったんだよ」
 今の宍戸の髪は短い。
 首筋のラインが綺麗なことは変わらない。
 首筋だけでなく、身体のラインのどこもかもが綺麗なのだと今の鳳は知っている。
 ぽすん、と空気の抜ける音をたてて宍戸が鳳の胸元に力を抜いて凭れかかってきた。
 鳳は、すっぽりと覆いこむようにして宍戸の身体を抱きこみ直した。
 鳳の腕の中で宍戸は寛ぎきった様子で軽く笑う。
「ま、実際珍しすぎたんだけどな。ああいうの」
「宍戸さん?」
「お前は絶対早い段階で上に来ると俺は思ってたからな……あんな所で怪我でもされたら困るって、そう思ったらもう、お前の靴紐結びに行ってた」
「…困るっていうのは?」
 鳳は宍戸の髪に唇を寄せて問いかける。
 ひどく不思議な事を言われた気がした。
「お前とレギュラー争いしたかったのか俺?」
「それ俺に聞かれても」
 あまりにも素直な宍戸の声に、思わず鳳も笑ってしまった。
 抱き込んだ身体を緩く揺するようにして笑っていると、宍戸が尚も鳳に身を預けるようにもたれてきて、互いの距離が無いに等しくなった。
「早く上がって来いって」
 そればっか考えてたんだよなあ、と回顧する宍戸の声音が、鳳にそっと届いた。
「距離が、近くなりたかったのかもな。もっと」
「それは、あの時から、俺はずっと考えていましたけど…」
 待たせましたか?と問いかければ、ちょうどいい頃に来たよな、お前、と言って宍戸がまた笑う。
「それなら良かった」
 ぎゅっと腕に力を入れて抱き締めて。
 鳳は宍戸の頭上に口付ける。
 昔あった出来事も、それを思い返す今も、こうして二人でいるように。
 同じ事を時々繰り返しながら、先行きも、こうして二人でるのだろう。
 あの日宍戸が結わえた紐、それが繋げているかのような、今と未来だ。
 寝返りをうちかけて目が覚めた。
 腰の軸が痛みに似て重く、ベッドの上で丸くなっただけで終わってしまう。
 喉で息を詰めただけで言葉にはならなかった筈なのに、海堂と一緒に寝ていた乾がベッドから降りた気配がしたので。
 海堂は片頬をシーツに埋めてまま瞼を引き上げる。
「……先輩…」
「ん……」
 乾の部屋は、まだ薄暗い。
 海堂が嗄れた声で呼ぶと、なめらかな低音の交じった呼気でのみ返された。
 頭を極軽く、ぽんぽんと大きな手のひらに覆われて、うっかり身体の力を抜いた海堂の隙を浚って乾は部屋を出ていった。
 すぐ戻ると耳元に囁かれていたので、海堂はそれ以上何も言わないでいた。
「………………」
 薄れかけている眠気と、増してきた倦怠感。
 指の先まで埋まっている充足感と、肢体の節々にある痛みにまでは到達していない微量の疼き。
 重い熱、深い息、濃い残響。
 乾の声と、乾の温度と、乾の身体の形とが、海堂に交ざって、入り組んで、絡み合って、未だもつれたままだった。
 夜中に目覚めたらこんななのかと、海堂は思い知らされた気で茫然とした。
「………、…ふ……」
 寝着にしていたシャツの裾が不意にたくしあげられ、海堂は小さく首を竦めた。
 戻ってきた乾が、そのまま海堂をうつ伏せにして、ベッドの縁に腰掛けて言う。
「寝てていいよ。海堂」
「先輩…?……」
 乾の眠りは短く浅い。
 起こしてしまったのかと、海堂がひやりとすれば、察しも頭も良い男はやんわりと否定をくれた。
「正直な所、気がかりでうまく眠れなかったからね」
「………え…?……、…っ………」
 うつ伏せになっている海堂は、シャツを捲くられた腰に、広い範囲で熱いものを乗せられて、一瞬息を詰め、一気にといた。
 じわっと浸透してきた熱の心地良さに身体が弛緩する。
 レンジで加熱してきたらしい蒸しタオルを海堂の腰に乗せ、乾が上から大きな手のひらでゆっくり押し付けてくる。
「引きずり上げたまま、長かったからなあ……痛む?」
「え?……いえ、寧ろ気持ちいい…ですけど……」
 引きずり上げたまま長かったって何がと考え込んだ海堂は、熱の心地良さに相当ぼんやりしていたらしい自分に少ししてから漸く気づいた。
 乾に組み敷かれていた時間の事を思い出したのだ。
 今更ながらに。
「無理な体勢で散々したから、後になってまずかったかと思ってな。……本当に大丈夫か、海堂」
「………ぅ…」
 真剣に、本当に真剣に、そんな心配しないで欲しいと海堂は居たたまれなさにおかしくなりそうだった。
 うつぶせたまま手元のシーツをかたく握り締めてしまったのは、眠りに落ちる前までの、二人分の欲情を思い返してしまったからだ。
 欲しい欲しいとそればかりになって、放熱して訴えた二人分の欲望が、我が事ながら生々しくて、言葉も出ない。
「………………」
 乾は温んできたタオルを海堂の肌の上から外し、二枚目のタオルを広げているようだった。
 パンッと小気味良い音がして、また海堂の腰の真上に染み入るような熱が乗る。
 乾の手のひらの形に、ぎゅっと圧し込まれて、海堂の唇からは無意識にゆるい吐息が零れる。
 タオル三枚分繰り返されてから、乾は海堂のシャツを下ろし、海堂が仰向けになれるよう極自然に手を貸してから言った。
「大丈夫か? もう一回用意してくるか?」
「………や、……もう…いいっす…」
 ありがとうございましたと礼を言いながらも、記憶の羞恥心だけでなく、現実でもここまで甘やかされてしまって、海堂は切れ切れにしか言葉を紡げない。
 部屋が暗がりで、今が夜で、本当によかったと海堂は思った。
「どこか他にきつい所は…?」
「いえ、…どこも、全然」
 乾によって丁寧に温められた腰は、もう充分寝返りもうてる状態だった。
 全身に甘ったるい倦怠感は詰まったままだが、ほんの少しも不調を訴える箇所はない。
 海堂が小さく返した言葉に、乾はタオルを机に放って、眼鏡を外した。
 ベッドヘッドに眼鏡を置いた音がした。
 そのまま乾が、海堂を抱き込むようにしてベッドにもぐりこんでくる。
 同じ毛布の中。
 小さく欠伸をした気配に、ふと海堂は気をとられた。
「……乾先輩…?」
「…安心したら眠くなってきた」
「………………」
 乾は、寝る間も惜しんで何かをいつもしている。
 眠りが浅くて、何かあればすぐに目を覚ましてしまう。
 そんな乾がもらした欠伸にも、告げてきた言葉にも、海堂は驚いた。
 密やかに、どぎまぎと、視線だけを引き上げた海堂は、大分慣れてきた暗がりの視界で、自分をゆるく抱き込んだまま乾が眠たげに睫毛を落としていくのをじっと見つめていた。
「………………」
 安心。
 本当に、その一語に尽きる乾の寝顔を無防備に晒されて。
 海堂はぐらぐらする思考を宥めるべく無理矢理目を閉じた。
 何なのだ、この男は、本当に。
 うっかり、いとも簡単に、また同じ相手、同じ恋に、落ちていく。
 何度も何度も、好きになる。
 何なのだ、この男は、本当に。
 海堂は詰りようもない思いで、胸のうちが溶けていく気分を味わうしかない。
 もうどうせなら、それならいっそ巻き込んで。
 同じにしてやると決意したりもする。
 溶け出した二種類のクリームが、完全にふたつ、交ざってしまって。
 そうなればもう元の味のふたつに分離する事は、不可能になっているような状態にしてやると、睡魔に絡めとられながら海堂は決めた。



 本当は、すでに、とうに、共に液体状になっているという事に、彼ら二人気づいていれば。
 互いを抱き締め合って眠るこの睡眠が、こうも深く甘い事の意味も、容易く知れるというものなのだが、それもまたそのうちに知ればいいだけの事でもある。
 怒ったな、これは結構本気で、と観月はひっそりと思った。
 握り締められている手首には、痛みよりも熱を覚えた。
 赤澤の本気の力がそこに加えられている事を観月は理解していたが、それは痛みではなく、手首の脈の中の血液が煮えて熔けだすような感触ばかりを観月に伝えてくる。
 相変わらず赤澤の怒りの沸騰点が観月には判りづらかった。
 大概の事はゆったりとやり過ごし、激昂しても自分自身でそれを宥める術を知っている男は、寛容で懐深い。
 滅多な事で、人に対して怒る事はしないのに。
 それこそ観月がいくら辛辣な言葉を口にしても、たいした諍いにもならないのに。
「赤澤、」
 観月が掴まれた手首をいくら振り払おうとしても、それはびくともしなかった。
 テニス部の部室で、二人きりでいて、コートではもう部活も始まる時間だ。
 もう行きますよと向けた背を、腕を引かれて引き戻される。
「………………」
 肩越しに観月が振り返れば、そこにはひどく真剣な目をした赤澤がいた。
 笑わない時。
 赤澤の顔は、本来のきつい面立ちが際立って、危うく鋭く尖って見える。
 おかしな男だ。
 観月は唇を引き結んで思う。
 睨み返すように見据えて思う。
 だから、普段から。
 言い争いをしていても。
 観月が、言い過ぎたと思うような時は然して怒りもせずにいるくせに。
 いったい今日の何が、今までの会話にどの部分が、そこまで彼を苛立たせたのかと不審に思う。
「………………」
 観月は、再度渾身の力で自身の手を取り返すようにもがき、その反動のまま赤澤を振り切って部室を出て行こうとした。
 しかし観月の手首は依然赤澤の手のひらに捕らわれたままで。
 背を返すどころか、そのまま強く引き込まれ、部室の壁にきつく背中を押し付けられた体勢で拘束される。
「何を、…っ…」
「行くな」
「勝手なこと言わないで下さい!」
 観月の視界に影が落ちる。
 赤澤の肢体の影にも雁字搦めにされてしまうように。
 影が落ちる。
 観月はひどい威圧感を覚えた。
 息苦しい。
 怯みそうな自分が嫌で、観月は赤澤を意固地になって睨み据えた。
「行くな。今ここで話を終わらせたくない」
 大きい声を出された訳でもないのに、ビリビリと肌に響いてくる呻き声じみた獰猛な声。
 普段の明るくさばけた口調の男と同一人物かと観月が危ぶむ程に、赤澤の声音はきつかった。
 話も何も、なにを話していたかすら観月は見失っている。
 赤澤に、これほどまでに食い下がられるような話をしていた覚えはないのだ。
「いい加減にしなさい……! いつまでもこんな所にいて、裕太君が呼びに、…」
「……逆効果だ。お前」
 いつもなら観月の言葉を遮るような真似は絶対にしない赤澤が低すぎる声で言う。
 今口にするなと、壁に一層強く肩を押さえつけられ、そのまま唇が塞がれる。
「ン、…」
 びくりと観月は身体を竦ませた。
 まさかそうされるとはこれっぽっちも思っていなくて、ひらいたままの唇に赤澤のそれを受けとめる。
 深く噛みあう。
 赤澤を引き剥がそうと持ち上げた腕は、両方とも再度手首を握り込まれて壁に打ち付けられた。
 乱暴な。
 こんなこといつもなら絶対にしない。 
 キスが強い。
 荒い。
 迂闊にも泣きそうになって観月は顔を歪ませた。
 噛み付くようなキスが怖い訳ではない。
 恐怖ではなく怖いと感じたのは、普段とはあまりに違うキスに相手が赤澤だという事すら見失いそうになったからだ。
「、………か…ざわ、」
 唇の角度を変える一瞬で漏らした声は。観月自身で呆れる程にか細かった。
 手首の拘束は緩まないまま、赤澤が唇を離す。
 額と額が触れ合う距離で見据えてくる。
「俺が何に怒ってんだか、訳判らないっていう顔すんな」
「………かりません…よ…っ」
 ほんの少しだけ赤澤の気配が和らいだと思った途端、やみくもな衝動で瞳が潤んできた事を自覚して観月はうろたえた。
 こんなことくらいでなんでと困惑しながら息を詰めていると、赤澤が大きく顔を片側に傾けて、観月の眦に口付けてきた。
 唇にするようなやり方のキスだった。
 赤澤の舌先で、目尻を軽く舐められる。
 そんな所舐めるから濡れるんだと憤りながら、観月は唇を噛み締めた。
「あのな? 観月」
「……、………」
「お前が好きで、お前を一番大事にして、何が悪い。そこに腹立てられたって、俺はこれっぽっちもそれは変えらんねえよ」
 そんな言葉を交わしていた。
 確かに。
 そうだ、と観月はゆるゆると思い出す。
 部室にいた観月を赤澤が迎えに来て、もう部活が始まる頃で、だから早く行きましょうと観月は言ったのに。
 迎えにきた赤澤に、きちんと礼も言ったのに。
 赤澤が気遣わしい事ばかり言い出して、一向にコートに向かおうとしないどころか、観月を引きとめてきたから。
「お前が、ちゃんと全部考えてるのは判ってる。でもお前の心配をするなってのは聞けねえよ」
「………………」
 そう観月が口にしてからだ。
 赤澤が本気で怒り出したのは。
 大概の事には寛容な赤澤が、どうしてそれくらいの事でと観月は思うのだけれど。
 現実、単にその一言が発端で赤澤はこうまで怒っているのだ。
 だいたい観月は、部室でほんの少し仮眠をとっていただけなのに。
「………どうしてそれでそこまで怒るんですか」
 壁に押さえつけられている両手首の拘束は、まだ解けない。
 赤澤の声もきつく低いままだ。
 力づくにされる事が嫌いな自分を知っていてこれかと、観月は赤澤から視線を外した。
 こんな程度のことで泣き出しそうな自分はおかしい。
 でも顔をそらした途端、手首から指を外して抱き締めてくる赤澤もどうかと思った。
 それも、両腕で観月を胸元に抱き込む優しいやり方で。
「お前が俺の一番大事なもんを粗雑に扱うからだろうが」
「な、……」
「挙句に、お前の心配はしなくて結構とか言われるわ、部活に行くって話ぶった切られるわ」
「…、…っ…それは…」
「ついでにもっと言わせて貰えば、俺が一番大事なもんを、俺にこれっぽっちも大事にさせないし、可愛がらせもしないからだよ。お前が」
「何馬鹿なこと言ってんですか…っ……」
 だからむかついたんだよと、いきなり拗ねた口調で憮然と赤澤に告げられてしまった観月は、赤澤の胸元におさまったまま怒鳴るしかない。
 その言葉を聞いた途端、体温が上がった自分も馬鹿だとつくづく思ったけれど。
「馬鹿だよ。欲求不満の八つ当たりだ」
 開き直ったようなさばさばとした口調と、ほんの少しの笑み交じりの言葉は、普段の赤澤だ。
 そのことにやみくもな安堵感が募って、しかし同時に観月を気づいている。
 赤澤が、そういう言い方で、この場を紛れさせてくれている事。
 そんな茶化した言い方をして、その実赤澤の本音は、本当にただ観月が心配なだけなのだろう。
「だからって、あんな大袈裟に心配されなくても、……」
 自己管理の元の仮眠でしょうがと観月は呻きつつ、ちがう、本当に言いたいのは、とすぐに思い直す。
「……っ…だいたい…、…欲求不満だなんて人聞きの悪い事言わないで下さい…!」
「別に俺は自己申告恥ずかしくもねえけど?」
「あなたの問題じゃありません!」
 僕が相手で欲求不満だなんて失礼極まりない。
 観月が毅然と言い切ると、赤澤が一瞬の沈黙の後、殊更きつく観月を抱き締めなおして声を上げて笑い出した。
「お前、なんかそれ違くね?」
「なに爆笑してんですか…!」
 笑う赤澤に抱き潰されそうになりながら、観月は腹立ち紛れに赤澤の首筋に唇を押し当てる。
 ふわっと抱擁の腕が解けた。
「観月…?」
「………………」
 観月は赤澤のユニフォームの胸元を掴んで支えにして、軽く爪先立った。
 今度は唇を掠ってやって。
 本当に、恥ずかしくて腹がたつ。
「観月?」
 甘い優しい声で丁寧に伺ってこられては尚更だ。
 心配などは、しなくて結構。
 無駄に気を使われたいとも思わない。
 ただ、と観月は赤澤に向き直り、腹の内を少しだけ晒してやろうと決める。
「あなたが僕を、本気で全部欲しがらないでよくなったら、あなたの目の前から完璧に消えてやる」
 矛盾していると言いたければ言うといい。
 観月の尊大な眼差しの先で、赤澤はあっさり手を振った。
「あ、そりゃない」
 即答だ。
 ないないと言い切る。
 観月の滅多に言わない本音をあっさりと切り捨てて、そんな赤澤に憮然とした観月の唇に、優しい甘いキスを落として赤澤は笑う。
「……すげえこと言い出すなあ…お前」
「………………」
「また惚れ直したけど」
 そうですか、と返すのが実際のところ精一杯の観月は、部室の扉がノックされてひっそりと安堵する。
「裕太君ですね」
「………だからこの体勢でそういう事言うなって言ってんだろ」
「そういう事も何も裕太君は裕太君でしょう」
 扉の向こう側で、部長ー?観月さんー?と声が聞こえてくる。
 キスを重ねる距離の赤澤の唇に、それでも意図的に後輩の名前を少し多めになすりつけてやるくらいは、意趣返しでいいだろうと観月は思う。
 結局、赤澤が本気で怒ったり、距離をあけてこられたりしたら、自分に出来る事はないのだと観月は思っているからだ。
「……ったく」
 苦笑いで赤澤は降参してきた。
「悪い、裕太。すぐ行く!」
「赤澤部長?」
「おう」
「じゃ、行ってます」
 何故か開かない扉越しの、大声を張り上げる二人の会話に観月が不思議に思っていると、赤澤が観月の唇に最後のキスをしながら言った。
「聡くて理解ある後輩で有難いよな?」
「……っな…、……まさか、裕太君…」
「中に俺がいるって判ってからはお前の名前を呼ばない気遣いの後輩」
 さ、行くか、と赤澤は観月に手を伸ばした。
 赤澤の手は、今した最後のキスのような感触で観月の手首を包みこみ、観月を連れて強引に走り出した。
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