How did you feel at your first kiss?
Jr選抜合宿の、三日目の夜。
就寝時間の少し前に乾が声をかけて部屋に呼んだのは氷帝の跡部と鳳だった。
「………何の用だ。乾」
薄手のガウンを羽織った跡部を見るなり、乾はゆるく笑った。
「やあ。判ってはいるけど不機嫌だな跡部」
「どういう意味だ」
「まあ、それは後程。入ってくれ。鳳も」
「失礼します。……お一人ですか?」
ワッフル素材の柔らかそうなパジャマをきちんと着こんでいる鳳は、不思議そうに室内を見て言った。
ちなみに出迎えた乾もパジャマ姿だが、上半身は裸だ。
「海堂は宍戸と神尾と一緒だ………って、おいおい、待ってくれ。二人とも」
二人に同時に詰め寄って来られて、乾は大真面目な顔でホールドアップの姿勢を取った。
「どういう事ですか、それ! さっき宍戸さん、大事な用事があるからって言って、出て行ったんですけど?!」
「何であいつらと一緒にいやがるんだ?! そんな時間があるってんなら…!」
「まあまあ。落ち着け。可愛いじゃないか。三人で。パジャマパーティみたいなものだろう。こんな時でもなければ出来ない話もあるだろうし」
「これが落ち着いていられますか…! 宍戸さん、ちゃんとパジャマ着てるのかどうか……まさかいつもみたいに半裸に近いような恰好で……」
鳳はそう言って青くなり、跡部は一層不機嫌に舌打ちした。
「跡部もそう怒るな。そんなだから氷帝以外の学校の生徒がお前を遠巻きにするんだろう」
「…んなこと知るかッ」
「とにかく」
乾は飄々と、鳳と跡部の肩に手を乗せて。
結構な剣幕の二人を宥めて。
「俺達は俺達で、今からここでパジャマパーティ」
「………………」
「………………」
「さて。乾汁でもいれようか」
「いらないです!」
「いらねえ!」
氷帝の二人は同時に叫び、乾はひどく哀しげな顔をした。
それでも、消灯までの時間を使って、乾と跡部と鳳はそれぞれパジャマ姿で話をした。
集合をかけた乾の話が全て済む頃、部屋の扉がノックされる。
「海堂。お前の部屋なんだからノックはいいよ」
「………風邪ひくっスよ…先輩。何で上着、着てねえんだ」
すぐに扉に向かった乾は海堂を招き入れて、今にも腰から抱き寄せそうな密着ぶりで戻ってきた。
濃紺の光沢のあるパジャマを着た海堂は、まず跡部に目礼をし、鳳にも視線をやって、それから背後を流し見た。
「宍戸さん…! やっぱり上着着てない…!」
「……んな大声出す事かよ。長太郎」
呆れた口ぶりで次に姿を現したのが宍戸で。
咄嗟に鳳が、自分が来ていたパジャマの上着を脱いで宍戸の肩にかける。
「………、……」
そうやって、自分でしておいて。
絶句した鳳を、宍戸が怪訝な顔で見つめ返している。
「………なにヘンな顔してんだ。お前」
「いえ……あの……」
「お泊りして、彼氏のダボダボの上着だけを羽織っているみたいな図、…って事らしいな」
感に入っている鳳の心情を正確に代弁した乾に、宍戸が赤くなって鳳を睨みつけて。
怒鳴りつけようとしたタイミングを浚って、最後に神尾が現れた。
「あとべー!」
「………………」
すこぶる上機嫌である。
目も眩む蛍光グリーンのパジャマに、跡部が思った事は。
さっさとそれは脱がしてしまおうという事だった。
「……っ…!…!……な、何す、……ッ…」
ガバッと上着の合わせを開かれて、発火する勢いで赤面した神尾に気づかない振りをしてやりながら、その場にいた四人は溜息をつく。
「跡部………」
「うるせえ。消灯時間だ。散れ」
「…散れってお前。一応ここは俺と海堂の部屋なんだぞ」
再度溜息をつく乾に、跡部は唇の端を引き上げた。
「貸すって言ったのはてめえだろ」
「ああそうだ。確かにな」
これ以上はもう何を言っても無理と判断し、四人はその場から退く事にした。
とりあえず、跡部の機嫌が浮上している事だけは、はっきりと認識出来たので。
学校が同じであっても、学年が違えば擦れ違いが多くなるのも当然な話。
ましてその上、学校が違うともなれば。
必然と一緒にいられる時間は少なくなる。
それなのに、こうして選抜合宿で一緒になって。
なまじ近くにいるのに、それでもやはり一緒にいられる時間がとれないとなればフラストレーションが溜まるのも無理はない。
「部屋でも同室だったら、良かったんだがな」
同じ学校同士である乾は海堂と、鳳は宍戸と、同室であったにも関わらず。
跡部と神尾は部屋割りでもバラバラになってしまった。
状況を見て、今日のサプライズを企画したのは乾だった。
乾は鳳と跡部を呼んでこの話をし、海堂は宍戸と神尾を呼んでこの話をした。
跡部と神尾の為に用意した一晩の同室だが、他の彼らとて出来れば一緒にいたかったので。
乾による、厳選たる人選と、あからさまにならないように組み合わせた最低限のシャッフルとで、これから彼らも幾部屋かを回って。
結局最後は同室のまま。
眠りにつくのだ。
就寝時間の少し前に乾が声をかけて部屋に呼んだのは氷帝の跡部と鳳だった。
「………何の用だ。乾」
薄手のガウンを羽織った跡部を見るなり、乾はゆるく笑った。
「やあ。判ってはいるけど不機嫌だな跡部」
「どういう意味だ」
「まあ、それは後程。入ってくれ。鳳も」
「失礼します。……お一人ですか?」
ワッフル素材の柔らかそうなパジャマをきちんと着こんでいる鳳は、不思議そうに室内を見て言った。
ちなみに出迎えた乾もパジャマ姿だが、上半身は裸だ。
「海堂は宍戸と神尾と一緒だ………って、おいおい、待ってくれ。二人とも」
二人に同時に詰め寄って来られて、乾は大真面目な顔でホールドアップの姿勢を取った。
「どういう事ですか、それ! さっき宍戸さん、大事な用事があるからって言って、出て行ったんですけど?!」
「何であいつらと一緒にいやがるんだ?! そんな時間があるってんなら…!」
「まあまあ。落ち着け。可愛いじゃないか。三人で。パジャマパーティみたいなものだろう。こんな時でもなければ出来ない話もあるだろうし」
「これが落ち着いていられますか…! 宍戸さん、ちゃんとパジャマ着てるのかどうか……まさかいつもみたいに半裸に近いような恰好で……」
鳳はそう言って青くなり、跡部は一層不機嫌に舌打ちした。
「跡部もそう怒るな。そんなだから氷帝以外の学校の生徒がお前を遠巻きにするんだろう」
「…んなこと知るかッ」
「とにかく」
乾は飄々と、鳳と跡部の肩に手を乗せて。
結構な剣幕の二人を宥めて。
「俺達は俺達で、今からここでパジャマパーティ」
「………………」
「………………」
「さて。乾汁でもいれようか」
「いらないです!」
「いらねえ!」
氷帝の二人は同時に叫び、乾はひどく哀しげな顔をした。
それでも、消灯までの時間を使って、乾と跡部と鳳はそれぞれパジャマ姿で話をした。
集合をかけた乾の話が全て済む頃、部屋の扉がノックされる。
「海堂。お前の部屋なんだからノックはいいよ」
「………風邪ひくっスよ…先輩。何で上着、着てねえんだ」
すぐに扉に向かった乾は海堂を招き入れて、今にも腰から抱き寄せそうな密着ぶりで戻ってきた。
濃紺の光沢のあるパジャマを着た海堂は、まず跡部に目礼をし、鳳にも視線をやって、それから背後を流し見た。
「宍戸さん…! やっぱり上着着てない…!」
「……んな大声出す事かよ。長太郎」
呆れた口ぶりで次に姿を現したのが宍戸で。
咄嗟に鳳が、自分が来ていたパジャマの上着を脱いで宍戸の肩にかける。
「………、……」
そうやって、自分でしておいて。
絶句した鳳を、宍戸が怪訝な顔で見つめ返している。
「………なにヘンな顔してんだ。お前」
「いえ……あの……」
「お泊りして、彼氏のダボダボの上着だけを羽織っているみたいな図、…って事らしいな」
感に入っている鳳の心情を正確に代弁した乾に、宍戸が赤くなって鳳を睨みつけて。
怒鳴りつけようとしたタイミングを浚って、最後に神尾が現れた。
「あとべー!」
「………………」
すこぶる上機嫌である。
目も眩む蛍光グリーンのパジャマに、跡部が思った事は。
さっさとそれは脱がしてしまおうという事だった。
「……っ…!…!……な、何す、……ッ…」
ガバッと上着の合わせを開かれて、発火する勢いで赤面した神尾に気づかない振りをしてやりながら、その場にいた四人は溜息をつく。
「跡部………」
「うるせえ。消灯時間だ。散れ」
「…散れってお前。一応ここは俺と海堂の部屋なんだぞ」
再度溜息をつく乾に、跡部は唇の端を引き上げた。
「貸すって言ったのはてめえだろ」
「ああそうだ。確かにな」
これ以上はもう何を言っても無理と判断し、四人はその場から退く事にした。
とりあえず、跡部の機嫌が浮上している事だけは、はっきりと認識出来たので。
学校が同じであっても、学年が違えば擦れ違いが多くなるのも当然な話。
ましてその上、学校が違うともなれば。
必然と一緒にいられる時間は少なくなる。
それなのに、こうして選抜合宿で一緒になって。
なまじ近くにいるのに、それでもやはり一緒にいられる時間がとれないとなればフラストレーションが溜まるのも無理はない。
「部屋でも同室だったら、良かったんだがな」
同じ学校同士である乾は海堂と、鳳は宍戸と、同室であったにも関わらず。
跡部と神尾は部屋割りでもバラバラになってしまった。
状況を見て、今日のサプライズを企画したのは乾だった。
乾は鳳と跡部を呼んでこの話をし、海堂は宍戸と神尾を呼んでこの話をした。
跡部と神尾の為に用意した一晩の同室だが、他の彼らとて出来れば一緒にいたかったので。
乾による、厳選たる人選と、あからさまにならないように組み合わせた最低限のシャッフルとで、これから彼らも幾部屋かを回って。
結局最後は同室のまま。
眠りにつくのだ。
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意識がなくても流れる液体。
自失してか、眠りに落ちたか、動かない、自失している身体から、液体は流れている。
「…………宍戸さん…」
涙のように、こめかみから伝う汗の行方に指先を宛がって。
濡れた唇を浅く塞ぐ。
宍戸が快楽を溶いて吐き出す間も手の中から逃がさなかった先から、鳳が退いた四肢の狭間から、零れるように、まだ流れていくもの。
宍戸の身体の液体の、行き先全部に目をやって、そして指や唇を寄せ、鳳も自分の身体を流れていく液体を体感する。
「…………………」
やわらかな舌からも、まだ啜るように濡れたものを奪ってしまう。
身じろぐ事無く投げ出されている細い肢体のあちこちに、流れる液体だけが生々しくて。
目を閉じたままの静かな宍戸の顔に数回キスを落としながら、鳳は宍戸の髪をそっと撫でた。
汗で冷たくなった黒髪は少し湿っていて、しんなりと、とろけるように柔らかかった。
「つらいこと、なにもないといいんだけど……」
呟く鳳の声は小さい。
欲しいままに暴いてしまった後、こうして意識のない宍戸を腕に抱いていると。
感情が募りすぎて苦しくなる。
「…………………」
宍戸の示す先行きに、どうしたって目が行って、気が行って、本人は導きとも思っていないくらいの些細な出来事に鳳はどうしようもなく惹かれて、縋って、追いかけて。
「………そういうのも…つらくさせてないといいんだけど……駄目かな…宍戸さん」
抑制がきかなくなる。
止め処なく、ただひたすらに欲しいままだ。
今までも、今も、これからも。
「おまえ、うるさい……」
「……………、……」
横たわる宍戸を腕をついて見下ろし、その髪に触れていた鳳の手がぎくりと止まる。
微かに動いた唇からの掠れ声。
宍戸の双瞳が、静かにひらいていく。
「……宍戸さ…」
宍戸は眉根を寄せていた。
「………気失うくらい…よくさせといて、あとから何を耳元で…ぐだぐだと…」
「………………」
囁かれた言葉に鳳は絶句する。
宍戸は気だるげに片腕を目元をこすり、乱れた前髪の隙間から、鳳を見据えた。
「頭おかしくなるくらい俺をよくさせて」
「……、…宍戸さん…?」
「しけたこと言ってんじゃねえよ……」
不機嫌そうに見えた宍戸だったが、持ち上げた片腕を鳳の首に絡めた。
宍戸の腕に引き寄せられる形で、鳳は宍戸からのキスを受ける。
「…………………」
重なるだけのキスにあやされて、結局鳳の方からもその唇を貪った。
深く、深く、口づけあう。
濡れた粘膜を寄せ合って、呼吸で温めて。
互いの唇の合間で、体液が、また滴って、繋がって。
二人で行く何処かへと、それは流れていく。
過たず、間違わず、二人の為の何処かにだ。
導き助けること。
誘い出すこと。
いつでも誘液は彼らの中に満ちていて。
いつでも望む先、思わぬ先に、進んでいける。
導き、助けて、誘い出して。
自失してか、眠りに落ちたか、動かない、自失している身体から、液体は流れている。
「…………宍戸さん…」
涙のように、こめかみから伝う汗の行方に指先を宛がって。
濡れた唇を浅く塞ぐ。
宍戸が快楽を溶いて吐き出す間も手の中から逃がさなかった先から、鳳が退いた四肢の狭間から、零れるように、まだ流れていくもの。
宍戸の身体の液体の、行き先全部に目をやって、そして指や唇を寄せ、鳳も自分の身体を流れていく液体を体感する。
「…………………」
やわらかな舌からも、まだ啜るように濡れたものを奪ってしまう。
身じろぐ事無く投げ出されている細い肢体のあちこちに、流れる液体だけが生々しくて。
目を閉じたままの静かな宍戸の顔に数回キスを落としながら、鳳は宍戸の髪をそっと撫でた。
汗で冷たくなった黒髪は少し湿っていて、しんなりと、とろけるように柔らかかった。
「つらいこと、なにもないといいんだけど……」
呟く鳳の声は小さい。
欲しいままに暴いてしまった後、こうして意識のない宍戸を腕に抱いていると。
感情が募りすぎて苦しくなる。
「…………………」
宍戸の示す先行きに、どうしたって目が行って、気が行って、本人は導きとも思っていないくらいの些細な出来事に鳳はどうしようもなく惹かれて、縋って、追いかけて。
「………そういうのも…つらくさせてないといいんだけど……駄目かな…宍戸さん」
抑制がきかなくなる。
止め処なく、ただひたすらに欲しいままだ。
今までも、今も、これからも。
「おまえ、うるさい……」
「……………、……」
横たわる宍戸を腕をついて見下ろし、その髪に触れていた鳳の手がぎくりと止まる。
微かに動いた唇からの掠れ声。
宍戸の双瞳が、静かにひらいていく。
「……宍戸さ…」
宍戸は眉根を寄せていた。
「………気失うくらい…よくさせといて、あとから何を耳元で…ぐだぐだと…」
「………………」
囁かれた言葉に鳳は絶句する。
宍戸は気だるげに片腕を目元をこすり、乱れた前髪の隙間から、鳳を見据えた。
「頭おかしくなるくらい俺をよくさせて」
「……、…宍戸さん…?」
「しけたこと言ってんじゃねえよ……」
不機嫌そうに見えた宍戸だったが、持ち上げた片腕を鳳の首に絡めた。
宍戸の腕に引き寄せられる形で、鳳は宍戸からのキスを受ける。
「…………………」
重なるだけのキスにあやされて、結局鳳の方からもその唇を貪った。
深く、深く、口づけあう。
濡れた粘膜を寄せ合って、呼吸で温めて。
互いの唇の合間で、体液が、また滴って、繋がって。
二人で行く何処かへと、それは流れていく。
過たず、間違わず、二人の為の何処かにだ。
導き助けること。
誘い出すこと。
いつでも誘液は彼らの中に満ちていて。
いつでも望む先、思わぬ先に、進んでいける。
導き、助けて、誘い出して。
挑発のつもりは全くなかった。
観月だって限界だったのだ。
真剣に優しくされて、本気で大事にされて、無条件に信頼されて。
赤澤に、そうされればされるほど、それよりもっとと望んでしまいそうな自分の飢餓感が怖かっただけだ。
いつ、これが取り上げられてしまうのか。
いつ、もう、そうされなくなってしまうのか。
そんなことばかりを考えてしまう。
望むのはいつでも自分ばかりで、与えてくれるのはいつも彼ばかりで。
だから観月は、自分には赤澤に与えられるものは何もないし、赤澤には観月に望むものは何もない、そんな風に考えてしまう。
そんな風に考えたから、言ったのだ。
「あなたは僕を側に置いておけば満足なんですね」
飾っておけばそれでいい。
連れて歩くには良いなんていう評価も観月自身聞き慣れた。
「観月」
「………………」
しかし赤澤は、そう口にしたきり黙った。
言われた言葉の意味を考えるように押し黙った。
確かそれまでは、当たり障りのない話を交わしていた筈だった。
ルドルフの寮の、観月の部屋で。
他愛のない、会話を。
「………………」
沈黙が部屋に満ちる。
無表情の赤澤は、観月の目には見知らぬ男のように見えた。
こんな空気になってしまった事は、観月の予想の範疇外だった。
「………観月?」
こんな声で呼ばれる事も。
「俺は…お前にそう思わせたのか」
抑揚のない問いかけや、きつくなった視線。
観月は小さく息を詰める。
ベッドによりかかるようにして床に座っていた赤澤が、立てた片膝に乗せた右手で拳をつくる。
口元を覆い、舌打ちのような吐息をついた後、赤澤のその拳は床を強く打った。
カーペットに吸音されて、音はしない。
でも明らかな振動に観月は片を揺らす。
「俺は、お前を無くすような真似は出来ないし、しない」
「……………」
「でも、それはお前を抱かないっていう意味じゃねえんだよ」
決して声を荒げたりはしないけれど、赤澤が酷く機嫌を損ねている事は観月にも理解出来た。
机に向かっていた観月の元へ、肉食獣の敏捷さで立った赤澤に、観月は腕を掴まれてベッドへと放られる。
「……、…っ…」
「お前の口で言われて、許せる台詞じゃねえよ。観月」
餓えたように食らいつかれた。
唇に。
手首を握り締められ、シーツに押さえつけられた。
観月に口付けながら、赤澤は片膝で寝具の上に乗り上がってきた。
キスはきつい。
舌が痛い。
息が混ざって、唾液が混ざって、観月の唇は赤澤の唇と密着し、卑猥に歪んだ。
「…、…ぅ…、…」
この男に。
執着される相手は、いったいどんな子なのだろうかと、思った事がある。
「……………」
「……っ…、…は…、…、…」
「……………」
「ンっ、………、…」
吐いた息も、吸い込む息も熱くて。
苦しくて。
もがいてでも逃げたい。
力で押さえつけられて、唇をむさぼられて。
茹だったように指先までじんじんと痺れて、顔なんか真っ赤だろうと容易に判るだけに居たたまれない。
「…………っ……く…」
「観月。嫌がってんじゃないんだったら暴れるな」
「………ゃ……」
観月、と窘めるような赤澤の呼びかけに観月は泣きたくなった。
もう、赤澤の手は信じられないほど優しく観月の身体に触れている。
あれほど強く拘束されていた手首が甘く握り込まれて、先ほどまで締め付けていた所を労るように長い指の先で撫でられている。
強引なまま。
押さえつけられて、力づくで、それなのに。
「赤、澤………」
「ああ。俺だ」
えらそうで。
「観月」
優しくて。
「好きだ」
熱を帯びた声。
力が抜けた。
「観月」
赤澤の手のひらが掠っただけで、神経を直接握り潰されたみたいに観月の中で何かが溶ける。
少しも痛くはなく、でもひどく辛い。
「観月……」
「………ャ…、……」
泣き出さないのが奇跡だ。
そう思っても。
自分を追い詰める一方の赤澤を、罵る言葉なんか何一つ観月の手にはない。
「…っ…、…」
「観月」
赤澤の手のひらで、観月は目元を拭われた。
泣いてなんかいない、ただ泣きそうなだけでいるのに。
察して宛がわれた手に涙が呼ばれてしまう。
「…………っ…ぅ」
「嫌か?」
「……、……、…っ…」
「ごめんな」
俺はどうしてもしたいと赤澤は言って、観月の足に手をかける。
迷わない手が、躊躇わない指先が、観月に触れる。
その手に服越しに包まれて、観月はしゃくりあげるように喉を詰まらせた。
「お前が、俺でいく所が見たい」
「………ッ……、…」
囁くようであったのに。
赤澤の、低い、その声に。
観月の神経は今度こそ本当に、赤澤の手中で、全てを砕かれた。
観月だって限界だったのだ。
真剣に優しくされて、本気で大事にされて、無条件に信頼されて。
赤澤に、そうされればされるほど、それよりもっとと望んでしまいそうな自分の飢餓感が怖かっただけだ。
いつ、これが取り上げられてしまうのか。
いつ、もう、そうされなくなってしまうのか。
そんなことばかりを考えてしまう。
望むのはいつでも自分ばかりで、与えてくれるのはいつも彼ばかりで。
だから観月は、自分には赤澤に与えられるものは何もないし、赤澤には観月に望むものは何もない、そんな風に考えてしまう。
そんな風に考えたから、言ったのだ。
「あなたは僕を側に置いておけば満足なんですね」
飾っておけばそれでいい。
連れて歩くには良いなんていう評価も観月自身聞き慣れた。
「観月」
「………………」
しかし赤澤は、そう口にしたきり黙った。
言われた言葉の意味を考えるように押し黙った。
確かそれまでは、当たり障りのない話を交わしていた筈だった。
ルドルフの寮の、観月の部屋で。
他愛のない、会話を。
「………………」
沈黙が部屋に満ちる。
無表情の赤澤は、観月の目には見知らぬ男のように見えた。
こんな空気になってしまった事は、観月の予想の範疇外だった。
「………観月?」
こんな声で呼ばれる事も。
「俺は…お前にそう思わせたのか」
抑揚のない問いかけや、きつくなった視線。
観月は小さく息を詰める。
ベッドによりかかるようにして床に座っていた赤澤が、立てた片膝に乗せた右手で拳をつくる。
口元を覆い、舌打ちのような吐息をついた後、赤澤のその拳は床を強く打った。
カーペットに吸音されて、音はしない。
でも明らかな振動に観月は片を揺らす。
「俺は、お前を無くすような真似は出来ないし、しない」
「……………」
「でも、それはお前を抱かないっていう意味じゃねえんだよ」
決して声を荒げたりはしないけれど、赤澤が酷く機嫌を損ねている事は観月にも理解出来た。
机に向かっていた観月の元へ、肉食獣の敏捷さで立った赤澤に、観月は腕を掴まれてベッドへと放られる。
「……、…っ…」
「お前の口で言われて、許せる台詞じゃねえよ。観月」
餓えたように食らいつかれた。
唇に。
手首を握り締められ、シーツに押さえつけられた。
観月に口付けながら、赤澤は片膝で寝具の上に乗り上がってきた。
キスはきつい。
舌が痛い。
息が混ざって、唾液が混ざって、観月の唇は赤澤の唇と密着し、卑猥に歪んだ。
「…、…ぅ…、…」
この男に。
執着される相手は、いったいどんな子なのだろうかと、思った事がある。
「……………」
「……っ…、…は…、…、…」
「……………」
「ンっ、………、…」
吐いた息も、吸い込む息も熱くて。
苦しくて。
もがいてでも逃げたい。
力で押さえつけられて、唇をむさぼられて。
茹だったように指先までじんじんと痺れて、顔なんか真っ赤だろうと容易に判るだけに居たたまれない。
「…………っ……く…」
「観月。嫌がってんじゃないんだったら暴れるな」
「………ゃ……」
観月、と窘めるような赤澤の呼びかけに観月は泣きたくなった。
もう、赤澤の手は信じられないほど優しく観月の身体に触れている。
あれほど強く拘束されていた手首が甘く握り込まれて、先ほどまで締め付けていた所を労るように長い指の先で撫でられている。
強引なまま。
押さえつけられて、力づくで、それなのに。
「赤、澤………」
「ああ。俺だ」
えらそうで。
「観月」
優しくて。
「好きだ」
熱を帯びた声。
力が抜けた。
「観月」
赤澤の手のひらが掠っただけで、神経を直接握り潰されたみたいに観月の中で何かが溶ける。
少しも痛くはなく、でもひどく辛い。
「観月……」
「………ャ…、……」
泣き出さないのが奇跡だ。
そう思っても。
自分を追い詰める一方の赤澤を、罵る言葉なんか何一つ観月の手にはない。
「…っ…、…」
「観月」
赤澤の手のひらで、観月は目元を拭われた。
泣いてなんかいない、ただ泣きそうなだけでいるのに。
察して宛がわれた手に涙が呼ばれてしまう。
「…………っ…ぅ」
「嫌か?」
「……、……、…っ…」
「ごめんな」
俺はどうしてもしたいと赤澤は言って、観月の足に手をかける。
迷わない手が、躊躇わない指先が、観月に触れる。
その手に服越しに包まれて、観月はしゃくりあげるように喉を詰まらせた。
「お前が、俺でいく所が見たい」
「………ッ……、…」
囁くようであったのに。
赤澤の、低い、その声に。
観月の神経は今度こそ本当に、赤澤の手中で、全てを砕かれた。
くだけてシーツにくずれるしかない腰を、背後から固い腕に抱き込まれる。
それまで海堂の腰を鷲掴みにしていた大きな手のひらが、海堂の腹部を滑って支えてくる。
どこか慣れないようなその刺激に怯える為、海堂はきつく唇を噛み締めてシーツに顔を伏せた。
「…、ッ…、……」
「………海堂…?」
乱れた乾の呼気が呼びかけと一緒に耳に当たって、海堂は堪えきれずに、か細い声音を喉から洩らす。
「…………く………ぅ……」
「海堂」
少し慌てたように乾は海堂の後頭部に顔を寄せてきた。
宥める仕草で後ろ髪を撫でられ、大丈夫かと低い声で囁かれては。
それはもう追い討ちでしかない。
「海堂?」
心配げな声に引きずられて。
海堂はシーツに顔を伏せたまま、肩越しに視線だけを乾へと差し向ける。
「……ぃ………」
名前も呼びきれないまま。
潤みきった挙句に、ぼろぼろと零れてしまった瞳からの液体は、余韻の強さに他ならない。
それでも海堂のそんな有様を目の当たりにしてしまった乾は、相当慌てたようだった。
「どこか辛い? 海堂?」
「………………」
首を左右に振った海堂の所作だけでは乾は納得しなかった。
だから海堂は自分の頬へと伸ばされてきた乾の手に顔を摺り寄せるようにした。
涙を拭おうとしていた手が緊張でもしたかのように、びくりと跳ねる。
「……海堂?」
「手………」
「………なに?」
顔を近づけられ、小さな声で聞かれて。
海堂は乾の手のひらに片頬を預けて息をつく。
「……サーブ練習……どんだけやったん…ですか……」
「え?」
骨が太くなって、筋肉が固くなって、肉刺の出来た掌、張り詰めた皮膚の強靭さ。
高みに行き着く為のきざはしを駆け上がる最期の時には、今までにない力で拘束された。
否が応でも海堂は体感させられる。
乾の身体を。
少しでも変化があれば、何もかも赤裸々に。
「悪い。どこか痛ませたか?」
乾は海堂の言わんとしているところをすぐに悟ったようで。
神妙な問いかけをしてきたので。
海堂は濡れた目できつく乾を見据えた。
「……んな…ヤワじゃね……」
「いや、ヤワとかどうとかの話じゃなくてさ。海堂」
知らぬうちに何か大事をしでかしたとでも言いたげな乾の態度に、海堂は乾の身体の下で身を捩って仰向けになった。
多分腰の真裏には乾の指の痕がある。
最期に、握りつぶされそうに掴まれていたあたり。
次第に痺れるように疼く刺激がそれを海堂に知らしめているから、とりあえず今は乾の目から隠してしまった。
海堂の言いたい事は、そんな話ではないからだ。
「………………」
仰向けになって見上げた乾の手を、海堂は改めて正面からそっと手にとって見つめる。
骨ばった指と、手の甲。
指の腹も、付け根も、ひどく固い。
乾はデータを詰める時よりも、身体を動かしている時の方が、より一層ストイックになる。
海堂は部内でも練習量は常に一番だと言われていたが、それは目につく状況が多いというだけで、実際乾がこなしている量にはとても及んでいない。
今まるで突然に気づいたみたいに、乾の身体から知る事がある。
強くなった力や、強固になっていく四肢。
だからといってそんな乾に、傷つけられたり、ついていけなくなるような自分じゃない事くらい判れと海堂は思う。
「……海堂」
「………………」
海堂の気の済むまで、その手を預けてくれていた乾だから。
判らない筈もない。
「俺の手だろ?」
「………当たり前のこと言うな」
そして抱き締めてきて。
「それでお前は俺の海堂?」
「当たり前のこと何遍も言わせんな…っ!」
笑みの交じる、低い声は優しい。
海堂が羞恥に任せて怒鳴りつけても、穏やかで深い抱擁は緩まない。
幸せそうな相手や、幸せな自分。
勝つためにするべき事で、何かの変化があったとしても。
それらは全て幸せの手の内だ。
それまで海堂の腰を鷲掴みにしていた大きな手のひらが、海堂の腹部を滑って支えてくる。
どこか慣れないようなその刺激に怯える為、海堂はきつく唇を噛み締めてシーツに顔を伏せた。
「…、ッ…、……」
「………海堂…?」
乱れた乾の呼気が呼びかけと一緒に耳に当たって、海堂は堪えきれずに、か細い声音を喉から洩らす。
「…………く………ぅ……」
「海堂」
少し慌てたように乾は海堂の後頭部に顔を寄せてきた。
宥める仕草で後ろ髪を撫でられ、大丈夫かと低い声で囁かれては。
それはもう追い討ちでしかない。
「海堂?」
心配げな声に引きずられて。
海堂はシーツに顔を伏せたまま、肩越しに視線だけを乾へと差し向ける。
「……ぃ………」
名前も呼びきれないまま。
潤みきった挙句に、ぼろぼろと零れてしまった瞳からの液体は、余韻の強さに他ならない。
それでも海堂のそんな有様を目の当たりにしてしまった乾は、相当慌てたようだった。
「どこか辛い? 海堂?」
「………………」
首を左右に振った海堂の所作だけでは乾は納得しなかった。
だから海堂は自分の頬へと伸ばされてきた乾の手に顔を摺り寄せるようにした。
涙を拭おうとしていた手が緊張でもしたかのように、びくりと跳ねる。
「……海堂?」
「手………」
「………なに?」
顔を近づけられ、小さな声で聞かれて。
海堂は乾の手のひらに片頬を預けて息をつく。
「……サーブ練習……どんだけやったん…ですか……」
「え?」
骨が太くなって、筋肉が固くなって、肉刺の出来た掌、張り詰めた皮膚の強靭さ。
高みに行き着く為のきざはしを駆け上がる最期の時には、今までにない力で拘束された。
否が応でも海堂は体感させられる。
乾の身体を。
少しでも変化があれば、何もかも赤裸々に。
「悪い。どこか痛ませたか?」
乾は海堂の言わんとしているところをすぐに悟ったようで。
神妙な問いかけをしてきたので。
海堂は濡れた目できつく乾を見据えた。
「……んな…ヤワじゃね……」
「いや、ヤワとかどうとかの話じゃなくてさ。海堂」
知らぬうちに何か大事をしでかしたとでも言いたげな乾の態度に、海堂は乾の身体の下で身を捩って仰向けになった。
多分腰の真裏には乾の指の痕がある。
最期に、握りつぶされそうに掴まれていたあたり。
次第に痺れるように疼く刺激がそれを海堂に知らしめているから、とりあえず今は乾の目から隠してしまった。
海堂の言いたい事は、そんな話ではないからだ。
「………………」
仰向けになって見上げた乾の手を、海堂は改めて正面からそっと手にとって見つめる。
骨ばった指と、手の甲。
指の腹も、付け根も、ひどく固い。
乾はデータを詰める時よりも、身体を動かしている時の方が、より一層ストイックになる。
海堂は部内でも練習量は常に一番だと言われていたが、それは目につく状況が多いというだけで、実際乾がこなしている量にはとても及んでいない。
今まるで突然に気づいたみたいに、乾の身体から知る事がある。
強くなった力や、強固になっていく四肢。
だからといってそんな乾に、傷つけられたり、ついていけなくなるような自分じゃない事くらい判れと海堂は思う。
「……海堂」
「………………」
海堂の気の済むまで、その手を預けてくれていた乾だから。
判らない筈もない。
「俺の手だろ?」
「………当たり前のこと言うな」
そして抱き締めてきて。
「それでお前は俺の海堂?」
「当たり前のこと何遍も言わせんな…っ!」
笑みの交じる、低い声は優しい。
海堂が羞恥に任せて怒鳴りつけても、穏やかで深い抱擁は緩まない。
幸せそうな相手や、幸せな自分。
勝つためにするべき事で、何かの変化があったとしても。
それらは全て幸せの手の内だ。
夏休みに入ってすぐ、母方の田舎に家族で行く事になったと跡部に伝えた時から、神尾にはどことなく違和感があった。
神尾が話をした時の跡部の態度が、露骨におかしかったという訳ではない。
跡部は極めてあっさりとした様子で、別段不機嫌になったりもしなかった。
それなのに、どことなく、変かもしれないと神尾は思ったのだ。
田舎に行っていたのは一週間。
その間メールや電話もしたのだが、神尾の違和感は消えなかった。
別段冷たい態度をとられたとか、気にかかる言動を仄めかされたりとか、そういう事はなかったのに。
どうも気にかかるこの感じは何だろうと、神尾はずっと考えていた。
一週間して、田舎から帰ってきたその足で、神尾は跡部の元へ向かった。
今から行っていい?と尋ねたメールには、跡部が今居る場所だけが打たれたメールが返ってきた。
この金持ちめと、神尾は相変わらずの跡部に苦笑いして携帯をたたんだ。
とにかく広い、城か何かと思わせるような跡部の家は、そんな自宅の他にも都内に数箇所マンションがある。
部活の教化トレーニングが始まるといえば氷帝に一番近いマンションに、試験期間になれば集中する為にとまた別のマンションに、あげくには鍋用のマンションまである。
「……鍋食べるためのマンションとか有り得ないだろ。普通」
IHのクッキングヒーターがダイニングテーブルに埋め込み式になっているそのマンションに連れていかれた時は、神尾も本当に心底から呆れた。
その時の事を思い出しながら、神尾は今跡部がいるというマンションへと急ぐ。
手に持ったビニールの手提げ袋が少し重くて、でも神尾の足取りは軽く速いままだった。
玄関のオートロックだけ開けて貰い、あとは数機あるエレベーターの中から、跡部の家に行く専用エレベーターを選んで乗り込む。
そこで教わっている暗証番号を押すとエレベーターは漸く動いて、その指定階で停まる。
そうやって専用エントランスへと辿りついてみれば、鍵は勿論のこと、跡部の家の扉も大胆に開いていて。
神尾は、いつものように、お邪魔しまーすと声をかけて中に入った。
セキュリティが厳重で、なかなかこの玄関までやって来れないのは判ってはいるけれど、一応扉も閉めておく。
神尾が見当をつけて向かったリビングに、跡部はいた。
「跡部ー?」
「よう」
ソファで本を読んでいたらしい跡部は、肩越しに神尾に視線を流してきた。
「今日帰りだったっけか…」
読みさしの本を閉じて呟いた跡部に、神尾は膨れて、不服を訴える。
「がっかりしたみたいに言うか?!」
「別にがっかりしちゃいねえよ」
いつもだったら、こういう時、神尾を面白そうにからかってきたり、皮肉な笑いで応酬してくる跡部なのに、返答はあくまでも静かなもので。
静かというか、力ないような、覇気のない感じに、神尾はふと眉根を寄せる。
「跡部、どした?」
「何が」
「なんか…元気なくね…?」
「別に普通だが?」
言葉ではそう言うが、実際はどこかぼんやりしているような気がして、神尾はソファの裏側から跡部の背後に立ってビニール袋の中身を一つ取り出した。
「……食う?」
跡部の肩に腕を乗せるようにして差し出して見せたのは、今朝捥いできたばかりの赤いトマトだ。
田舎の畑で真っ赤に熟れていたのを、帰る直前に取ってきた。
「リコペルシコン・エスクレンタム」
「は?」
「トマトの学名だ」
食べられる狼の桃って意味だと呟きながら、跡部は神尾の手からトマトを食べた。
何だか訳もなく神尾は戸惑った。
自分でしておいて何だが、自分の手から跡部が物を食べるのは初めてで。
人馴れしていない動物か何かが、初めて自分の手から物を食べてくれたみたいな。
奇妙に気持ちが高ぶる気がしてどきどきする。
「………………」
丸齧りしているのに粗野な印象は全くない、端整な顔で。
跡部は二口目、三口目、と齧っていく。
神尾は黙って見下ろしているしか出来なくなる。
「うまいぜ?」
「……、…ん」
何だか言葉が詰まって喋れないでいる神尾に、跡部がちらりと視線を上げて言ってくる。
返答するのが精一杯の神尾の手から、跡部はトマトを一個食べきって。
ついでに神尾の指先も軽く舐めてきた。
「………っ……」
咄嗟に引いた神尾の手を跡部は掴んで、ソファの背もたれに後頭部を乗せて仰向けに神尾を見上げてきた。
「トマトってのは、性欲促進の作用があるって判ってて食わせたんじゃねえのか」
「え?……なん、……知らねーよそんなの…っ」
適当な事を言ってからかわれているのかと思った神尾の思考をよんだのか、跡部は呆れた顔をした。
「フランスではポム・ダムール、イギリスはラブ・アップル、どっちも意味は愛のリンゴ。日本じゃトマトだが語源はトマトゥルで、膨らむ果実って意味だ。この俺が、でまかせ言う訳ねえだろ」
「……、ぅ……いや、別に、でまかせとは言ってないけど……!」
どことなく気だるげな跡部の腕に、手と頭を掴まれて。
神尾は手繰り寄せられていく。
顔の向きがいつもと違って、下にいるのも跡部で。
慣れない体勢でのキスに狼狽した神尾は、触れ合う寸前に泣き言めいた言葉を洩らした。
「……跡部、なんかへんだよ…」
「………ああ?」
唇と唇が触れる直前。
でも吐息は唇の表面に当たって、それだけで震えがくる。
そっと零した言葉をそれでも拾ってきた跡部に、神尾は小声で続けた。
「元気ないっていうか……ぼーっとしてるっていうか……電話とかでもそうだったけど……なんかへんだった。今会ってても、やっぱ、なんかへんだ」
「………どういう言い草だ」
呆れたような吐息は少し不機嫌そうで。
少しだけ、無理矢理な感じでキスをされた。
「ん…っ、…、…っ、ぅ……」
「………………」
「…………っ…ぁ…」
真下からの舌に口腔を擽られて喉を詰まらせる。
挙句に引きずり込まれるようにして、その体勢のままソファを越えさせられ、跡部の膝に横たわるように引っ張られてしまった。
「…、ッ……跡部…、…っ…?」
世界が回って、乱暴な仕草に無茶するなと詰る目線を神尾が向ければ、身体が捩れるような窮屈な体制のまま、また跡部に唇を塞がれる。
「ふ……っ……ぅ……」
「てめえのこと考えてただけだっての」
「……ぇ…?」
元気がないみたいな、ぼうっとしているみたいな、らしくない跡部の電話越しの声。
「充電切れみてえなもんだろ。おとなしくなってて何が悪い」
静かというか、力ないというか、覇気のない感じで、本を読んでいた跡部。
「………ここでいいな?」
キスを重ねるごと、強くなっていく接触。
漸くいつもの、からかうような目に。
灯るどこか焦れたような熱。
身体を服の上から弄られて、神尾は何だかくらくらしてきた。
愛のリンゴで餌付けしてしまった。
膨らむ果実を食べさせた。
少しずつ、いつもの跡部になっていく。
触れた身体で、交わす目線で、与えられる言葉で、神尾は理解していった。
神尾が話をした時の跡部の態度が、露骨におかしかったという訳ではない。
跡部は極めてあっさりとした様子で、別段不機嫌になったりもしなかった。
それなのに、どことなく、変かもしれないと神尾は思ったのだ。
田舎に行っていたのは一週間。
その間メールや電話もしたのだが、神尾の違和感は消えなかった。
別段冷たい態度をとられたとか、気にかかる言動を仄めかされたりとか、そういう事はなかったのに。
どうも気にかかるこの感じは何だろうと、神尾はずっと考えていた。
一週間して、田舎から帰ってきたその足で、神尾は跡部の元へ向かった。
今から行っていい?と尋ねたメールには、跡部が今居る場所だけが打たれたメールが返ってきた。
この金持ちめと、神尾は相変わらずの跡部に苦笑いして携帯をたたんだ。
とにかく広い、城か何かと思わせるような跡部の家は、そんな自宅の他にも都内に数箇所マンションがある。
部活の教化トレーニングが始まるといえば氷帝に一番近いマンションに、試験期間になれば集中する為にとまた別のマンションに、あげくには鍋用のマンションまである。
「……鍋食べるためのマンションとか有り得ないだろ。普通」
IHのクッキングヒーターがダイニングテーブルに埋め込み式になっているそのマンションに連れていかれた時は、神尾も本当に心底から呆れた。
その時の事を思い出しながら、神尾は今跡部がいるというマンションへと急ぐ。
手に持ったビニールの手提げ袋が少し重くて、でも神尾の足取りは軽く速いままだった。
玄関のオートロックだけ開けて貰い、あとは数機あるエレベーターの中から、跡部の家に行く専用エレベーターを選んで乗り込む。
そこで教わっている暗証番号を押すとエレベーターは漸く動いて、その指定階で停まる。
そうやって専用エントランスへと辿りついてみれば、鍵は勿論のこと、跡部の家の扉も大胆に開いていて。
神尾は、いつものように、お邪魔しまーすと声をかけて中に入った。
セキュリティが厳重で、なかなかこの玄関までやって来れないのは判ってはいるけれど、一応扉も閉めておく。
神尾が見当をつけて向かったリビングに、跡部はいた。
「跡部ー?」
「よう」
ソファで本を読んでいたらしい跡部は、肩越しに神尾に視線を流してきた。
「今日帰りだったっけか…」
読みさしの本を閉じて呟いた跡部に、神尾は膨れて、不服を訴える。
「がっかりしたみたいに言うか?!」
「別にがっかりしちゃいねえよ」
いつもだったら、こういう時、神尾を面白そうにからかってきたり、皮肉な笑いで応酬してくる跡部なのに、返答はあくまでも静かなもので。
静かというか、力ないような、覇気のない感じに、神尾はふと眉根を寄せる。
「跡部、どした?」
「何が」
「なんか…元気なくね…?」
「別に普通だが?」
言葉ではそう言うが、実際はどこかぼんやりしているような気がして、神尾はソファの裏側から跡部の背後に立ってビニール袋の中身を一つ取り出した。
「……食う?」
跡部の肩に腕を乗せるようにして差し出して見せたのは、今朝捥いできたばかりの赤いトマトだ。
田舎の畑で真っ赤に熟れていたのを、帰る直前に取ってきた。
「リコペルシコン・エスクレンタム」
「は?」
「トマトの学名だ」
食べられる狼の桃って意味だと呟きながら、跡部は神尾の手からトマトを食べた。
何だか訳もなく神尾は戸惑った。
自分でしておいて何だが、自分の手から跡部が物を食べるのは初めてで。
人馴れしていない動物か何かが、初めて自分の手から物を食べてくれたみたいな。
奇妙に気持ちが高ぶる気がしてどきどきする。
「………………」
丸齧りしているのに粗野な印象は全くない、端整な顔で。
跡部は二口目、三口目、と齧っていく。
神尾は黙って見下ろしているしか出来なくなる。
「うまいぜ?」
「……、…ん」
何だか言葉が詰まって喋れないでいる神尾に、跡部がちらりと視線を上げて言ってくる。
返答するのが精一杯の神尾の手から、跡部はトマトを一個食べきって。
ついでに神尾の指先も軽く舐めてきた。
「………っ……」
咄嗟に引いた神尾の手を跡部は掴んで、ソファの背もたれに後頭部を乗せて仰向けに神尾を見上げてきた。
「トマトってのは、性欲促進の作用があるって判ってて食わせたんじゃねえのか」
「え?……なん、……知らねーよそんなの…っ」
適当な事を言ってからかわれているのかと思った神尾の思考をよんだのか、跡部は呆れた顔をした。
「フランスではポム・ダムール、イギリスはラブ・アップル、どっちも意味は愛のリンゴ。日本じゃトマトだが語源はトマトゥルで、膨らむ果実って意味だ。この俺が、でまかせ言う訳ねえだろ」
「……、ぅ……いや、別に、でまかせとは言ってないけど……!」
どことなく気だるげな跡部の腕に、手と頭を掴まれて。
神尾は手繰り寄せられていく。
顔の向きがいつもと違って、下にいるのも跡部で。
慣れない体勢でのキスに狼狽した神尾は、触れ合う寸前に泣き言めいた言葉を洩らした。
「……跡部、なんかへんだよ…」
「………ああ?」
唇と唇が触れる直前。
でも吐息は唇の表面に当たって、それだけで震えがくる。
そっと零した言葉をそれでも拾ってきた跡部に、神尾は小声で続けた。
「元気ないっていうか……ぼーっとしてるっていうか……電話とかでもそうだったけど……なんかへんだった。今会ってても、やっぱ、なんかへんだ」
「………どういう言い草だ」
呆れたような吐息は少し不機嫌そうで。
少しだけ、無理矢理な感じでキスをされた。
「ん…っ、…、…っ、ぅ……」
「………………」
「…………っ…ぁ…」
真下からの舌に口腔を擽られて喉を詰まらせる。
挙句に引きずり込まれるようにして、その体勢のままソファを越えさせられ、跡部の膝に横たわるように引っ張られてしまった。
「…、ッ……跡部…、…っ…?」
世界が回って、乱暴な仕草に無茶するなと詰る目線を神尾が向ければ、身体が捩れるような窮屈な体制のまま、また跡部に唇を塞がれる。
「ふ……っ……ぅ……」
「てめえのこと考えてただけだっての」
「……ぇ…?」
元気がないみたいな、ぼうっとしているみたいな、らしくない跡部の電話越しの声。
「充電切れみてえなもんだろ。おとなしくなってて何が悪い」
静かというか、力ないというか、覇気のない感じで、本を読んでいた跡部。
「………ここでいいな?」
キスを重ねるごと、強くなっていく接触。
漸くいつもの、からかうような目に。
灯るどこか焦れたような熱。
身体を服の上から弄られて、神尾は何だかくらくらしてきた。
愛のリンゴで餌付けしてしまった。
膨らむ果実を食べさせた。
少しずつ、いつもの跡部になっていく。
触れた身体で、交わす目線で、与えられる言葉で、神尾は理解していった。
突然の激しい雨の降り出しに、雨の及ばない所へと人の姿はたちどころに集まって。
立ち止まり、空を見上げているその情景。
そんな雨の中を、この上なく綺麗な動きで走り抜けていく人を鳳は見つけた。
誰も彼もが強い雨に足を踏みとどめている先で、全身を濡らして走っていく綺麗な残像。
無理矢理でも叫んで呼び止めずにはいられなかった。
「宍戸さん!」
制服のシャツは濡れそぼって透き通る色になり、艶のある黒い髪は細い首筋に張り付いている。
鳳の呼びかけに、走っていた宍戸は足を止めた。
本屋から出てきた所だった鳳は、入口の人混みを器用に避けて、傘を広げながら宍戸に歩み寄った。
「入って下さい。宍戸さん」
「もうここまで濡れりゃ一緒だっての」
強引に傘の中に入れようとした鳳の手をそれこそ器用に避けて、宍戸は笑っている。
部活がなくて、今日の帰りは一緒ではなかったのだ。
近づいてきた台風の関係で、今日の夕方から強い雨が降ると予報はしきりに繰り返していたので鳳は自宅から傘を持ってきたのだが、恐らく過度な手荷物を嫌う宍戸は判っていても傘を置いて出てきたのだろう。
待ち合わせをしてでも一緒に帰ってくるべきだったと鳳は思い、いいから入って下さいと強引に宍戸の手首を取る。
「だから今更だって言ってんだろ。俺はこのまま走って帰るからいい。じゃあな長太郎」
「宍戸さん……!」
濡れた肌は鳳の手のひらを滑るようにして引き抜かれていった。
強くて、細い、宍戸の手首が魔法のように奪われて消えてなくなる。
翻された華奢な背中は透明なシャツの中でほんのりと色味を帯びて肩甲骨を浮かび上がらせていた。
鳳は本屋に取って返すと、適当に一番近くにいた相手に自分の傘を無理矢理手渡した。
「よかったらこれ使って」
「え、…あの……っ…」
何だか高い歓声のような悲鳴が上がった気がしたが、鳳はもうそれどころではない。
見失ってしまう前に、追いつかなければならない。
地面に当たって跳ね返ってくるような豪雨は飛沫を散らして視界が曇る。
鳳もすぐにずぶ濡れになって、そうして漸く宍戸をつかまえた。
「も、…はやい、なあ…宍戸さん」
「長太郎?」
改めて背後から手首を掴むと、宍戸は唖然とした顔で振り返ってきた。
「何やってんだお前……」
「何って。宍戸さんを追いかけてきたんですけど」
「馬鹿かお前は! 傘持ってんのに何でわざわざ濡れて走ってくるんだよ?!」
「宍戸さんが入ってくれないから…」
拗ねたり責めたりするつもりはなかったけれど、鳳の物言いに宍戸はますます呆気にとられたような表情になった。
雨に打たれながら、濡れて、でも今度は足を止めたまま自分の前から走り去らない宍戸に鳳は笑みを浮かべて言った。
「宍戸さんが入ってくれないなら俺は傘なんかいりません」
「…………お前…、…なあ…」
声にならない溜息で、宍戸の細い肩が、がっくりと落ちるのを間近に見下ろして。
鳳はそっと宍戸の肩を手に包んで囁いた。
「一緒に帰って…くれますよね?」
「………信じらんね……」
頭上にも、肩先にも背中にも。
雨は当たって、服も髪も肌に張り付いて。
瞬きに邪魔なほど雨滴は顔をも濡らしてくるけれど。
宍戸と同じ雨にこうして濡れている方がどれだけいいかと思って。
鳳は宍戸の事を丁寧に見下ろした。
「……お前、うち寄ってけ」
バカ、ともう一度盛大に呆れてみせた宍戸が、鳳の胸元を軽く拳で叩いてくる。
それから宍戸は、鳳をはっきりと見上げて、笑った。
「お前って時々本気でどうしようもねえのな」
「そうですね。宍戸さんが好きでどうしようもないんです」
せっかく人通りも全く無いこんな雨の中だ。
鳳は僅かに屈んで、雨に濡れている宍戸の頬に軽く唇を寄せた。
すり寄るような、キスとも感じさせない程度の接触に、ふわりと宍戸の体温が上がった事が至近距離から判って。
鳳は綺麗で乱暴な宍戸の腕を、殴られる前に指を全部絡めて繋いでしまって、走り出す。
「長太郎…っ」
「はい。ごめんなさい」
「笑って謝ってんじゃねえよ…っ!」
怒鳴られても。
手は振り解かれないから。
鳳は、幸せだと思うのだ。
一緒にいられる為にならば。
いくらだって雨にも濡れる。
傘だって捨てる。
立ち止まり、空を見上げているその情景。
そんな雨の中を、この上なく綺麗な動きで走り抜けていく人を鳳は見つけた。
誰も彼もが強い雨に足を踏みとどめている先で、全身を濡らして走っていく綺麗な残像。
無理矢理でも叫んで呼び止めずにはいられなかった。
「宍戸さん!」
制服のシャツは濡れそぼって透き通る色になり、艶のある黒い髪は細い首筋に張り付いている。
鳳の呼びかけに、走っていた宍戸は足を止めた。
本屋から出てきた所だった鳳は、入口の人混みを器用に避けて、傘を広げながら宍戸に歩み寄った。
「入って下さい。宍戸さん」
「もうここまで濡れりゃ一緒だっての」
強引に傘の中に入れようとした鳳の手をそれこそ器用に避けて、宍戸は笑っている。
部活がなくて、今日の帰りは一緒ではなかったのだ。
近づいてきた台風の関係で、今日の夕方から強い雨が降ると予報はしきりに繰り返していたので鳳は自宅から傘を持ってきたのだが、恐らく過度な手荷物を嫌う宍戸は判っていても傘を置いて出てきたのだろう。
待ち合わせをしてでも一緒に帰ってくるべきだったと鳳は思い、いいから入って下さいと強引に宍戸の手首を取る。
「だから今更だって言ってんだろ。俺はこのまま走って帰るからいい。じゃあな長太郎」
「宍戸さん……!」
濡れた肌は鳳の手のひらを滑るようにして引き抜かれていった。
強くて、細い、宍戸の手首が魔法のように奪われて消えてなくなる。
翻された華奢な背中は透明なシャツの中でほんのりと色味を帯びて肩甲骨を浮かび上がらせていた。
鳳は本屋に取って返すと、適当に一番近くにいた相手に自分の傘を無理矢理手渡した。
「よかったらこれ使って」
「え、…あの……っ…」
何だか高い歓声のような悲鳴が上がった気がしたが、鳳はもうそれどころではない。
見失ってしまう前に、追いつかなければならない。
地面に当たって跳ね返ってくるような豪雨は飛沫を散らして視界が曇る。
鳳もすぐにずぶ濡れになって、そうして漸く宍戸をつかまえた。
「も、…はやい、なあ…宍戸さん」
「長太郎?」
改めて背後から手首を掴むと、宍戸は唖然とした顔で振り返ってきた。
「何やってんだお前……」
「何って。宍戸さんを追いかけてきたんですけど」
「馬鹿かお前は! 傘持ってんのに何でわざわざ濡れて走ってくるんだよ?!」
「宍戸さんが入ってくれないから…」
拗ねたり責めたりするつもりはなかったけれど、鳳の物言いに宍戸はますます呆気にとられたような表情になった。
雨に打たれながら、濡れて、でも今度は足を止めたまま自分の前から走り去らない宍戸に鳳は笑みを浮かべて言った。
「宍戸さんが入ってくれないなら俺は傘なんかいりません」
「…………お前…、…なあ…」
声にならない溜息で、宍戸の細い肩が、がっくりと落ちるのを間近に見下ろして。
鳳はそっと宍戸の肩を手に包んで囁いた。
「一緒に帰って…くれますよね?」
「………信じらんね……」
頭上にも、肩先にも背中にも。
雨は当たって、服も髪も肌に張り付いて。
瞬きに邪魔なほど雨滴は顔をも濡らしてくるけれど。
宍戸と同じ雨にこうして濡れている方がどれだけいいかと思って。
鳳は宍戸の事を丁寧に見下ろした。
「……お前、うち寄ってけ」
バカ、ともう一度盛大に呆れてみせた宍戸が、鳳の胸元を軽く拳で叩いてくる。
それから宍戸は、鳳をはっきりと見上げて、笑った。
「お前って時々本気でどうしようもねえのな」
「そうですね。宍戸さんが好きでどうしようもないんです」
せっかく人通りも全く無いこんな雨の中だ。
鳳は僅かに屈んで、雨に濡れている宍戸の頬に軽く唇を寄せた。
すり寄るような、キスとも感じさせない程度の接触に、ふわりと宍戸の体温が上がった事が至近距離から判って。
鳳は綺麗で乱暴な宍戸の腕を、殴られる前に指を全部絡めて繋いでしまって、走り出す。
「長太郎…っ」
「はい。ごめんなさい」
「笑って謝ってんじゃねえよ…っ!」
怒鳴られても。
手は振り解かれないから。
鳳は、幸せだと思うのだ。
一緒にいられる為にならば。
いくらだって雨にも濡れる。
傘だって捨てる。
乾の生活形態では、寝ている時間はどれくらいあるのだろうかと海堂は常々疑問に思ってしまう。
テニスに、データ収集に、それ以外にも乾は実に多趣味だった。
生真面目そうな印象があるが真面目一辺倒ではなく、多岐に渡って何だかんだと造詣が深い。
時間のやりくりだけは得意なんだよと乾は笑うが、睡眠時間などは二の次にされているのだろうと海堂は思っている。
最近の海堂は、そんな風に、乾の事を考える瞬間が、毎日のあちこちに増えていっている。
乾が多忙で、多趣味で、忙しそうなのは出会った頃からそうだったのに。
今頃になってあれこれ気づいたみたいな気になるのは、有り得ないこととすら思っていたダブルスを、海堂が乾と組む事になってからの事だろうか。
「海堂、この後すこし時間あるか」
「……ッス」
「ちょっとつきあって」
部活が終わっても、初夏のこの時期は、まだまだ外は明るいままだ。
部の中でも最後にコートを後にして、着替えの為に部室に入ったところで乾に声をかけられた海堂は、同意の頷きを返したものの、そのまま乾に腕をとられて驚いた。
乾は着替えを済ませていたが、海堂は当然まだジャージのままなのだ。
「あ、そうか。制服と鞄か」
「え……」
俺が取ってくると言って、海堂のロッカーへと背中を向けた乾に海堂は面食らう。
急ぎの用件なのだろうか。
このままの恰好で行くのかと海堂が所帯なさげに自身の出で立ちを見下ろせば、せっかちだなあ乾はー、とハイトーンの声が海堂へとかけられる。
「菊丸先輩…」
「海堂が戻ってくるの待ってたのは判るけどー。ねえ? 着替えくらいさせろって、言っていいんだぞー? 海堂」
同級生の中では構われる立場でいる事の多い菊丸は、下級生に対してはお兄ちゃんぶりを発揮してしきりに構ってくる方だ。
海堂はそういう接触に元々慣れていないものだから、今もこうして背後から伸し掛かるようにしてきた菊丸に対して、微妙に畏まって固まってしまう。
「英二。海堂に乗らないの」
やんわりと菊丸を嗜めながら場に交ざってきた不二が、乾を流し見て笑う。
「海堂といる時は、乾も何だかかわいいよね」
「……………」
「乾がか?! かわいいか?!」
言葉の詰まった海堂と、たちどころに叫び声を上げた菊丸とを交互に見やって不二は言った。
「だって英二。僕達を誘ったり、声かけてきたりする時の、乾を考えてみなよ」
「ん?……んん………」
「……どう? 今みたいになる?」
「ならない!」
「だろう?」
あんな風にテンション上がらないよねと上級生二人に口を揃えて言われても、海堂には乾のテンションというものがよく判らなかった。
乾は大概落ち着き払っていて、羽目を外すような企み事も涼しい顔でしてのけるタイプだ。
「お待たせ。海堂。行こう」
持って来た海堂の荷物を、乾は自分が持つと言って海堂には手渡さないまま部室を出ようとする。
「え、……あの、…」
「なーに遠慮してんの海堂。いいんだよ、乾に持たせればー」
着替えもさせないで強引に連れ出されるんだからー、と菊丸が頬を膨らませる。
「乾。海堂と何処に行くの」
「内緒」
ほら見てかわいい、と不二は乾を指差して菊丸と海堂を振り返り笑う。
「ああもう、邪魔するなよ二人とも」
「……乾先輩、……」
海堂は二の腕を乾に取られて、半ば強制的に部室から連れ出される。
背後を気にする間も許されないまま、走れるか?と聞かれた。
「は?……」
面食らいつつも頷けば、するりと二の腕から乾の長い指が外れて、広い背中は海堂の先になって走り出す。
「………………」
急いでいるみたいだけれど、慌てているのではないようだった。
どちらかといえば楽しい事を待ちきれないみたいな気がすると海堂は思った。
乾のテンションというものは、海堂にはよく判らないものだけれど。
どことなく楽しげな乾の気配は判る気がして、そんな乾の背中を追って、海堂は走り出した。
行き先もわからず走っていくのだから、海堂が見ていたのは乾の背中だけだ。
結果として数駅分は走った事になるが、乾や海堂にしてみればたいしてきつい距離ではない。
駅前のビルの書店に続くエスカレター前で、乾は足を止めた。
そしてエスカレーターには乗らずに近辺をしきりに見回っている乾を、海堂は黙って見つめていた。
「あった」
「……………」
エスカレターの上り口脇の死角、レンガの塀にそれはあったらしい。
海堂が乾に近づくと、乾は一冊の本を翳して見せた。
洋書のようで海堂には見ただけではそれが何の本なのか判らない。
「世界から旅してきて、ここに今はいる本だ」
ブッククロッシングって知ってるか?と乾は海堂を促して、エスカレーターに乗った。
「読書家の為の活動体でね。サイトでマスター登録をしてBCIDナンバーを発行して、それを貼った本に世界を旅させるんだ」
「本に旅……?」
「そう。例えばこんな風にブッククロッシングの本を見つけたら、サイトに行ってBCIDナンバーを検索すると、この本がどこから来て、どういう人に読まれたのかが調べられる」
エスカレーターを上がっていった書店のあるフロアにはネットカフェもあって、オープンエリアネットスペースで乾は実際に海堂にそのサイトを見せながら説明した。
英語サイトだったが、好きな教科でもある海堂には興味の方が勝る。
今乾が手にしている本は、元はカナダから旅をしてきた本だった。
「自分が本を見つけた事をサイトに書き込んで、読み終えたら好きな場所にまたこの本を置いて旅をさせてやればいい」
「……ここにあるって事はどうして判ったんですか」
「国と街を選んで、検索出来る。まだ日本にはあまり普及していないから、偶然見つけるのは難しいからね」
「ずっと探してたんですか?」
「本当は偶然出会いたかった」
「………………」
かわいいかもしれないと。
海堂は唐突に思った。
真剣に、残念そうに、でもとても嬉しげな、こんな乾が。
多分、以前なら、そういう微妙な乾の変化は海堂には汲めなかったかもしれない。
ことテニスが絡めば自分の事だけに手一杯になってしまう海堂は、乾とでなければダブルスなど出来なかったと知っている。
乾には、何故なのか理解されている事が多くて。
海堂はそのどこか甘いような安堵感を初めて知ってしまった。
そうして海堂にも少しずつ、気づけて、判る、乾の心情が見つかっていく。
「どうせ探すなら、失くしたものを探すより、欲しいものを探す方がいいっスよね……」
「………………」
「先輩?」
呟くようにして言った海堂を、乾が強く見つめてくる。
何か自分はおかしな事を言ったかと海堂はぎこちなく乾に呼びかける。
「海堂は…」
「………………」
「俺がお前をどれくらい好きか知ってる…?」
「………なに真面目な顔で言ってんですか」
計測不可能だと。
自分の理解の範疇外にまでなったと。
完全敗北を露に見せて、乾は微笑した。
あまりにも真っ向から言われてしまって、海堂の羞恥心は後からじわじわと込み上げてくる。
これ以上何か言われたらとても正気を保っていられなくなりそうで。
海堂は低い声で、話をかえた。
「その本を次に行かせる場所……決まってるんですか」
「全国大会の会場とかどう?」
「………………」
挙句、同じ事を考えていたのだと知らしめられて。
もう、どうしようもない。
優勝は持って帰って。
この本は置いて帰る。
誰かの手で、何処かへと、運ばれていく本もあれば。
自らの手で、此処にだけ、生まれて育む恋情もある。
テニスに、データ収集に、それ以外にも乾は実に多趣味だった。
生真面目そうな印象があるが真面目一辺倒ではなく、多岐に渡って何だかんだと造詣が深い。
時間のやりくりだけは得意なんだよと乾は笑うが、睡眠時間などは二の次にされているのだろうと海堂は思っている。
最近の海堂は、そんな風に、乾の事を考える瞬間が、毎日のあちこちに増えていっている。
乾が多忙で、多趣味で、忙しそうなのは出会った頃からそうだったのに。
今頃になってあれこれ気づいたみたいな気になるのは、有り得ないこととすら思っていたダブルスを、海堂が乾と組む事になってからの事だろうか。
「海堂、この後すこし時間あるか」
「……ッス」
「ちょっとつきあって」
部活が終わっても、初夏のこの時期は、まだまだ外は明るいままだ。
部の中でも最後にコートを後にして、着替えの為に部室に入ったところで乾に声をかけられた海堂は、同意の頷きを返したものの、そのまま乾に腕をとられて驚いた。
乾は着替えを済ませていたが、海堂は当然まだジャージのままなのだ。
「あ、そうか。制服と鞄か」
「え……」
俺が取ってくると言って、海堂のロッカーへと背中を向けた乾に海堂は面食らう。
急ぎの用件なのだろうか。
このままの恰好で行くのかと海堂が所帯なさげに自身の出で立ちを見下ろせば、せっかちだなあ乾はー、とハイトーンの声が海堂へとかけられる。
「菊丸先輩…」
「海堂が戻ってくるの待ってたのは判るけどー。ねえ? 着替えくらいさせろって、言っていいんだぞー? 海堂」
同級生の中では構われる立場でいる事の多い菊丸は、下級生に対してはお兄ちゃんぶりを発揮してしきりに構ってくる方だ。
海堂はそういう接触に元々慣れていないものだから、今もこうして背後から伸し掛かるようにしてきた菊丸に対して、微妙に畏まって固まってしまう。
「英二。海堂に乗らないの」
やんわりと菊丸を嗜めながら場に交ざってきた不二が、乾を流し見て笑う。
「海堂といる時は、乾も何だかかわいいよね」
「……………」
「乾がか?! かわいいか?!」
言葉の詰まった海堂と、たちどころに叫び声を上げた菊丸とを交互に見やって不二は言った。
「だって英二。僕達を誘ったり、声かけてきたりする時の、乾を考えてみなよ」
「ん?……んん………」
「……どう? 今みたいになる?」
「ならない!」
「だろう?」
あんな風にテンション上がらないよねと上級生二人に口を揃えて言われても、海堂には乾のテンションというものがよく判らなかった。
乾は大概落ち着き払っていて、羽目を外すような企み事も涼しい顔でしてのけるタイプだ。
「お待たせ。海堂。行こう」
持って来た海堂の荷物を、乾は自分が持つと言って海堂には手渡さないまま部室を出ようとする。
「え、……あの、…」
「なーに遠慮してんの海堂。いいんだよ、乾に持たせればー」
着替えもさせないで強引に連れ出されるんだからー、と菊丸が頬を膨らませる。
「乾。海堂と何処に行くの」
「内緒」
ほら見てかわいい、と不二は乾を指差して菊丸と海堂を振り返り笑う。
「ああもう、邪魔するなよ二人とも」
「……乾先輩、……」
海堂は二の腕を乾に取られて、半ば強制的に部室から連れ出される。
背後を気にする間も許されないまま、走れるか?と聞かれた。
「は?……」
面食らいつつも頷けば、するりと二の腕から乾の長い指が外れて、広い背中は海堂の先になって走り出す。
「………………」
急いでいるみたいだけれど、慌てているのではないようだった。
どちらかといえば楽しい事を待ちきれないみたいな気がすると海堂は思った。
乾のテンションというものは、海堂にはよく判らないものだけれど。
どことなく楽しげな乾の気配は判る気がして、そんな乾の背中を追って、海堂は走り出した。
行き先もわからず走っていくのだから、海堂が見ていたのは乾の背中だけだ。
結果として数駅分は走った事になるが、乾や海堂にしてみればたいしてきつい距離ではない。
駅前のビルの書店に続くエスカレター前で、乾は足を止めた。
そしてエスカレーターには乗らずに近辺をしきりに見回っている乾を、海堂は黙って見つめていた。
「あった」
「……………」
エスカレターの上り口脇の死角、レンガの塀にそれはあったらしい。
海堂が乾に近づくと、乾は一冊の本を翳して見せた。
洋書のようで海堂には見ただけではそれが何の本なのか判らない。
「世界から旅してきて、ここに今はいる本だ」
ブッククロッシングって知ってるか?と乾は海堂を促して、エスカレーターに乗った。
「読書家の為の活動体でね。サイトでマスター登録をしてBCIDナンバーを発行して、それを貼った本に世界を旅させるんだ」
「本に旅……?」
「そう。例えばこんな風にブッククロッシングの本を見つけたら、サイトに行ってBCIDナンバーを検索すると、この本がどこから来て、どういう人に読まれたのかが調べられる」
エスカレーターを上がっていった書店のあるフロアにはネットカフェもあって、オープンエリアネットスペースで乾は実際に海堂にそのサイトを見せながら説明した。
英語サイトだったが、好きな教科でもある海堂には興味の方が勝る。
今乾が手にしている本は、元はカナダから旅をしてきた本だった。
「自分が本を見つけた事をサイトに書き込んで、読み終えたら好きな場所にまたこの本を置いて旅をさせてやればいい」
「……ここにあるって事はどうして判ったんですか」
「国と街を選んで、検索出来る。まだ日本にはあまり普及していないから、偶然見つけるのは難しいからね」
「ずっと探してたんですか?」
「本当は偶然出会いたかった」
「………………」
かわいいかもしれないと。
海堂は唐突に思った。
真剣に、残念そうに、でもとても嬉しげな、こんな乾が。
多分、以前なら、そういう微妙な乾の変化は海堂には汲めなかったかもしれない。
ことテニスが絡めば自分の事だけに手一杯になってしまう海堂は、乾とでなければダブルスなど出来なかったと知っている。
乾には、何故なのか理解されている事が多くて。
海堂はそのどこか甘いような安堵感を初めて知ってしまった。
そうして海堂にも少しずつ、気づけて、判る、乾の心情が見つかっていく。
「どうせ探すなら、失くしたものを探すより、欲しいものを探す方がいいっスよね……」
「………………」
「先輩?」
呟くようにして言った海堂を、乾が強く見つめてくる。
何か自分はおかしな事を言ったかと海堂はぎこちなく乾に呼びかける。
「海堂は…」
「………………」
「俺がお前をどれくらい好きか知ってる…?」
「………なに真面目な顔で言ってんですか」
計測不可能だと。
自分の理解の範疇外にまでなったと。
完全敗北を露に見せて、乾は微笑した。
あまりにも真っ向から言われてしまって、海堂の羞恥心は後からじわじわと込み上げてくる。
これ以上何か言われたらとても正気を保っていられなくなりそうで。
海堂は低い声で、話をかえた。
「その本を次に行かせる場所……決まってるんですか」
「全国大会の会場とかどう?」
「………………」
挙句、同じ事を考えていたのだと知らしめられて。
もう、どうしようもない。
優勝は持って帰って。
この本は置いて帰る。
誰かの手で、何処かへと、運ばれていく本もあれば。
自らの手で、此処にだけ、生まれて育む恋情もある。
誰よりも先に、走って忍足の近くにやって来て。
忍足の顔を覗き込むようにして、向日は、笑った。
「侑士! 楽しかったか?」
「ああ。おもろかった」
「よかったな!」
そんな答えは最初から全部判っていたみたいに。
向日は満面の笑顔を見せる。
屈託のない明るい笑顔に、ふと、忍足は息がしやすくなったような気になった。
「……試合終わった後な、探したんや」
「え? 何を?」
言葉だけでなく、大きな目でも問いかけてくる。
忍足が、探したもの。
「岳人を」
「……侑士?」
「試合に勝った後に、おんなじコートに岳人がおらんと寂しぃな」
勝ったと理解する一瞬に、いつも必ず目に映っていたものを、探した。
いなかったことなんかなかったから。
微苦笑を浮かべた忍足を、真直ぐ見つめて、向日は両腕を伸ばしてきた。
「おめでと」
「……………」
耳元で言われた言葉は聞きなれないものだったけれど。
首に腕を巻きつけてきた細い身体を、背で抱き返すその感触は、忍足の手によく馴染んだものだった。
いつでも、どんな時も。
勝利の後に手にしてきた感触が。
やっと。
忍足の顔を覗き込むようにして、向日は、笑った。
「侑士! 楽しかったか?」
「ああ。おもろかった」
「よかったな!」
そんな答えは最初から全部判っていたみたいに。
向日は満面の笑顔を見せる。
屈託のない明るい笑顔に、ふと、忍足は息がしやすくなったような気になった。
「……試合終わった後な、探したんや」
「え? 何を?」
言葉だけでなく、大きな目でも問いかけてくる。
忍足が、探したもの。
「岳人を」
「……侑士?」
「試合に勝った後に、おんなじコートに岳人がおらんと寂しぃな」
勝ったと理解する一瞬に、いつも必ず目に映っていたものを、探した。
いなかったことなんかなかったから。
微苦笑を浮かべた忍足を、真直ぐ見つめて、向日は両腕を伸ばしてきた。
「おめでと」
「……………」
耳元で言われた言葉は聞きなれないものだったけれど。
首に腕を巻きつけてきた細い身体を、背で抱き返すその感触は、忍足の手によく馴染んだものだった。
いつでも、どんな時も。
勝利の後に手にしてきた感触が。
やっと。
跡部が温泉に入っている。
暗がりの露天風呂だ。
「………………」
とてつもなく不思議な光景かもと思ってしまった感情は、露骨に神尾の顔に出たようで。
跡部が湯に浸かったまま少し顎を持ち上げて、神尾の事を見下ろすような目をしてきた。
えらそうで、昔はすごく腹が立ったそんな目も、今はすっかり見慣れてしまって気にならない。
睨まれて怖い訳ではないけれど、神尾は口元近くまで湯に沈んで、ちらりとそんな跡部を見返してやった。
入浴最終時間の深夜0時に近い露天風呂。
跡部と神尾の二人だけしかいない。
貸切にしている訳でも、跡部家の私物の露天風呂という訳でもない。
単にこんな時間まで露天風呂にいる輩がいないというだけだ。
最初、跡部に温泉に行くぞと誘われた時は、神尾は少し驚いた。
温泉とか、浴衣とか、旅館とか。
そういうイメージが跡部に全くなかったからだ。
だからこそ、見てみたいなどと思ってしまって。
神尾は跡部の誘いに同意して、この週末は二人で一泊の小旅行だ。
しかし案の定というべきか、そこはやはりあの跡部で。
連れてこられたのは神尾が想像していたような旅館ではなかった。
会員制のリゾートホテルとやらで、後々こっそりとネットで調べてみたら会員登録には数百万を要するシステムの、とにかく広くて綺麗なホテルだった。
でもそんなホテルでも、いろいろと楽しい事の方が多くて気後れも徐々に薄らいでいった。
ホテルに向かう為に初めて乗った登山電車の急勾配は、世界第二位というだけあって、面白くて。
隠し扉のような秘密めいた出入り口や、水に浮かんだように建てられたレストラン、壁一面の窓ガラスの部屋はただただ広い。
夕食は会席料理で、そんなもの生まれて初めて食べた神尾だったが、和食だったせいかフォークやナイフを気にしなくていい分、気楽に食べられて。
味もすこぶる良かったし。
唯一神尾の考え通りだった浴衣と羽織が部屋にあったから、それを着る跡部なんてものをしっかり見る事が出来たし。
一日の最後には、こんな風に寛ぎきって露天風呂につかっているというわけだ。
二人で。
「神尾」
「………………」
跡部に呼ばれても、神尾は肩まで全部湯に浸って、黙って跡部を見つめるだけでいた。
互いの距離は微妙だ。
手を伸ばしても届かない。
「………………」
跡部に実に無造作に手招かれる。
どうしようかなと神尾は少し考える。
「何もしねえよ。来いって」
「………………」
神尾をどう見ているのか、跡部はそんな風に言った。
別に。
何かしたっていいのに、なんて。
咄嗟に思ってしまった自分がひたすら耐えがたい一心で、神尾は湯の中、俯き加減に跡部へと近づいていく。
たいして進まないうち。
「………、…」
暗くてよく判らなかったけれど、湯の中で腕が取られて引き寄せられる。
跡部に。
「………………」
浮力に従って、まるで宙に浮かんで、引かれて、自分がひどく軽いものになってしまったような錯覚と供に跡部の腕に肩を抱かれる。
神尾が顔を上げるなり、濡れた温かい唇はふわりと神尾の唇を塞ぐ。
跡部のキスは接触がやわらかい分、幾度も神尾の唇に重なってきた。
頭の中がふわふわする。
胸の中がとろとろする。
浮力以上に、たちまち自分の全部が軽く、柔らかく、溶けてしまって、なくなりそうで。
神尾は跡部の舌に舐められて熱くなった唇で小さく訴えた。
「……も、…ヤダ」
「………あ?」
「…………のぼせたら…ど…すんだよ…」
「大事に運んでいってやる」
即答されて神尾はもう一度、もうヤダと思った。
顔が熱い。
言われた言葉にもだけれど、お湯の中でいつの間にか指を全部絡めるようにして繋ぎあった手の感触が。
甘すぎて気恥ずかしいのだ。
どこまでも甘く温かで。
「…………………」
だいたい機嫌のいい跡部もいけない。
いつもはもっと回りくどかったり複雑だったりする優しい部分が、判り易くなりすぎていていけない。
そんな跡部にじっと見据えられて、神尾は再びお湯の中に沈みたくなってしまった。
何でそんな風に見るんだと思いながら、神尾は小声で聞いた。
「………跡部、今なに考えてんの?」
「さっきメシ食ってた時のお前の顔」
「……は?」
それってどういう、と神尾が聞きかけた所をあっさりと遮って。
「幸せが形になったとしたら、それはさっきのお前なんだろうな」
唇の端を引き上げて笑う跡部の表情に、う、と神尾は言葉を詰まらせた。
そんな顔で、そんな事言って、そんなのはずるい。
「べ……別に……メシ美味かったのが理由なだけじゃ、ないんだからな……っ…」
「へえ?」
そうかよ、と神尾の言い分などまるで信じていない口ぶりで跡部は笑っている。
確かに、ものすごく、食事は美味しくて、いっそ感動もしたけれど。
幸せが形になっているとまで言われるなら、本当の、真実を判らせてやりたくなる。
「………そんなのは…跡部といて楽しいからに決まってるじゃんか」
「…………………」
悔しさ紛れに小さく言ったら、跡部がちょっと面食らったような顔をしたので。
神尾の機嫌が少し浮上する。
でも、その後の沈黙が思ったよりも長引いて。
神尾も徐々に、いい加減恥ずかしくなってしまった。
「…………………」
ひどく静かな気配の中、神尾が再び湯に深く浸かりかけていく。
ちゃぷんと響いた湯の音に交ざって、跡部が言った。
「お前」
「……なに」
「俺がのぼせたら責任もって運べよ」
「………、…出来るわけないだろ…ッ…」
「やれ。バカ」
お前のせいだろうがと、さらりと毒づいた跡部の表情を。
探るまでの余裕は、神尾にはなかったのだった。
周囲には、露天風呂を囲っている笹の葉擦れの音だけがしていた。
暗がりの露天風呂だ。
「………………」
とてつもなく不思議な光景かもと思ってしまった感情は、露骨に神尾の顔に出たようで。
跡部が湯に浸かったまま少し顎を持ち上げて、神尾の事を見下ろすような目をしてきた。
えらそうで、昔はすごく腹が立ったそんな目も、今はすっかり見慣れてしまって気にならない。
睨まれて怖い訳ではないけれど、神尾は口元近くまで湯に沈んで、ちらりとそんな跡部を見返してやった。
入浴最終時間の深夜0時に近い露天風呂。
跡部と神尾の二人だけしかいない。
貸切にしている訳でも、跡部家の私物の露天風呂という訳でもない。
単にこんな時間まで露天風呂にいる輩がいないというだけだ。
最初、跡部に温泉に行くぞと誘われた時は、神尾は少し驚いた。
温泉とか、浴衣とか、旅館とか。
そういうイメージが跡部に全くなかったからだ。
だからこそ、見てみたいなどと思ってしまって。
神尾は跡部の誘いに同意して、この週末は二人で一泊の小旅行だ。
しかし案の定というべきか、そこはやはりあの跡部で。
連れてこられたのは神尾が想像していたような旅館ではなかった。
会員制のリゾートホテルとやらで、後々こっそりとネットで調べてみたら会員登録には数百万を要するシステムの、とにかく広くて綺麗なホテルだった。
でもそんなホテルでも、いろいろと楽しい事の方が多くて気後れも徐々に薄らいでいった。
ホテルに向かう為に初めて乗った登山電車の急勾配は、世界第二位というだけあって、面白くて。
隠し扉のような秘密めいた出入り口や、水に浮かんだように建てられたレストラン、壁一面の窓ガラスの部屋はただただ広い。
夕食は会席料理で、そんなもの生まれて初めて食べた神尾だったが、和食だったせいかフォークやナイフを気にしなくていい分、気楽に食べられて。
味もすこぶる良かったし。
唯一神尾の考え通りだった浴衣と羽織が部屋にあったから、それを着る跡部なんてものをしっかり見る事が出来たし。
一日の最後には、こんな風に寛ぎきって露天風呂につかっているというわけだ。
二人で。
「神尾」
「………………」
跡部に呼ばれても、神尾は肩まで全部湯に浸って、黙って跡部を見つめるだけでいた。
互いの距離は微妙だ。
手を伸ばしても届かない。
「………………」
跡部に実に無造作に手招かれる。
どうしようかなと神尾は少し考える。
「何もしねえよ。来いって」
「………………」
神尾をどう見ているのか、跡部はそんな風に言った。
別に。
何かしたっていいのに、なんて。
咄嗟に思ってしまった自分がひたすら耐えがたい一心で、神尾は湯の中、俯き加減に跡部へと近づいていく。
たいして進まないうち。
「………、…」
暗くてよく判らなかったけれど、湯の中で腕が取られて引き寄せられる。
跡部に。
「………………」
浮力に従って、まるで宙に浮かんで、引かれて、自分がひどく軽いものになってしまったような錯覚と供に跡部の腕に肩を抱かれる。
神尾が顔を上げるなり、濡れた温かい唇はふわりと神尾の唇を塞ぐ。
跡部のキスは接触がやわらかい分、幾度も神尾の唇に重なってきた。
頭の中がふわふわする。
胸の中がとろとろする。
浮力以上に、たちまち自分の全部が軽く、柔らかく、溶けてしまって、なくなりそうで。
神尾は跡部の舌に舐められて熱くなった唇で小さく訴えた。
「……も、…ヤダ」
「………あ?」
「…………のぼせたら…ど…すんだよ…」
「大事に運んでいってやる」
即答されて神尾はもう一度、もうヤダと思った。
顔が熱い。
言われた言葉にもだけれど、お湯の中でいつの間にか指を全部絡めるようにして繋ぎあった手の感触が。
甘すぎて気恥ずかしいのだ。
どこまでも甘く温かで。
「…………………」
だいたい機嫌のいい跡部もいけない。
いつもはもっと回りくどかったり複雑だったりする優しい部分が、判り易くなりすぎていていけない。
そんな跡部にじっと見据えられて、神尾は再びお湯の中に沈みたくなってしまった。
何でそんな風に見るんだと思いながら、神尾は小声で聞いた。
「………跡部、今なに考えてんの?」
「さっきメシ食ってた時のお前の顔」
「……は?」
それってどういう、と神尾が聞きかけた所をあっさりと遮って。
「幸せが形になったとしたら、それはさっきのお前なんだろうな」
唇の端を引き上げて笑う跡部の表情に、う、と神尾は言葉を詰まらせた。
そんな顔で、そんな事言って、そんなのはずるい。
「べ……別に……メシ美味かったのが理由なだけじゃ、ないんだからな……っ…」
「へえ?」
そうかよ、と神尾の言い分などまるで信じていない口ぶりで跡部は笑っている。
確かに、ものすごく、食事は美味しくて、いっそ感動もしたけれど。
幸せが形になっているとまで言われるなら、本当の、真実を判らせてやりたくなる。
「………そんなのは…跡部といて楽しいからに決まってるじゃんか」
「…………………」
悔しさ紛れに小さく言ったら、跡部がちょっと面食らったような顔をしたので。
神尾の機嫌が少し浮上する。
でも、その後の沈黙が思ったよりも長引いて。
神尾も徐々に、いい加減恥ずかしくなってしまった。
「…………………」
ひどく静かな気配の中、神尾が再び湯に深く浸かりかけていく。
ちゃぷんと響いた湯の音に交ざって、跡部が言った。
「お前」
「……なに」
「俺がのぼせたら責任もって運べよ」
「………、…出来るわけないだろ…ッ…」
「やれ。バカ」
お前のせいだろうがと、さらりと毒づいた跡部の表情を。
探るまでの余裕は、神尾にはなかったのだった。
周囲には、露天風呂を囲っている笹の葉擦れの音だけがしていた。
頭上高くから、どっと落ちてくるような夏の強い日差しの重たさは、ここ連日続いている。
最高気温はいつでも三十度を越えていて、いよいよどうしようもなく夏なのだということを知らしめられている気分だった。
こう暑いと、却って反動で、宍戸の足は自然とテニスコートへと向いてしまう。
例え時間がたいしてない昼休みだとしてもだ。
直射日光の照りつけるテニスコートは誰もいる筈がないだろうと宍戸が出向いた場所であったが、足を踏み入れてみればそこに、宍戸はよく見知った男の姿を見つけた。
相手は宍戸にまだ気づいていない様子で、ラケットを持った長い腕を綺麗にしならせて、繰り返し繰り返しサーブを打っていた。
髪の先から汗が散っている。
前髪を手で荒くかきあげる仕草の合間に彼の表情を目にした宍戸は眉を寄せた。
「長太郎!」
名前を呼べばすぐに気づいて顔を向けてくる。
「宍戸さん」
微笑んだ柔和な顔は普段と変わらないのだけれど。
宍戸の顔つきは一層きつくなる。
「……お前……いつからやってんだ」
「はい…?」
近づいていって宍戸が手の伸ばした先。
指先に触れた鳳の髪は濡れている。
こめかみから頬へと指先を滑らせると、妙にかしこまってじっとしている鳳が、困ったような顔になっていく。
「………宍戸さん?」
「お前、どこか具合悪いのか?」
「何でですか?」
意外な事を言われたように鳳は軽く首を傾けてくる。
宍戸はぴしゃりと言った。
「顔色よくねえよ。昼メシは」
「………ええと……」
「食ってねえのかよ?」
鳳の返事を待つまでもない。
宍戸は続けざまに怒鳴った。
「アホ…! メシも食わねえで、この炎天下でテニスかよ? やりゃあいいってもんじゃねえだろうがっ!」
鳳がここまで汗をかいている様は、宍戸も滅多に見る事が無い。
そのくせ、顔は汗で濡れているが、腕などはさらさらとしていて。
脱水症状でも起こすのではないかと思って宍戸は加減も何もなく鳳を叱り付けた。
長身で一見細身だがしっかりとした骨格を持っている鳳は、その実結構な虚弱体質だと宍戸は思っている。
正確にはデリケートといったほうがいいのかもしれない。
風邪がはやれば素直にその流行にのり、合宿に行けば枕がかわったせいで寝つきが悪くなる。
暑い夏なら例に漏れずに夏バテで、全く持って食べられなくなるのだ。
現にこうして、痩せた頬と疲れきったような気配とに、宍戸は今から購買に行って何か買って来られるだろうかと頭で考え、そして。
考えるより先に行動だと、宍戸が身を翻した時だった。
鳳が、宍戸のシャツの裾を掴んだ。
「…………………」
それは去って行くものに対して、追いすがる子供の仕草そのもので、宍戸は呆気にとられる。
鳳自身も一瞬びっくりしたような顔をしていて、でも宍戸のシャツを掴みしめている指先は外れなかった。
「長太郎…?…」
「すみません………でも、いかないで」
「いかないでって…お前……」
そんな必死な目で何で、と宍戸の困惑は一層深くなる。
すみません、と鳳はもう一度言った。
伏せた目元で、まっすぐに長い睫毛が数回躊躇うように動いた。
何を言いよどんでいるのかと宍戸が怪訝に見つめる先、鳳は小さく低い声で言った。
「夏バテというより……宍戸さんが足りなくてバテてただけだから……」
「………はあ?」
「や、……俺も今ちゃんと判ったっていいますか……」
自分でも夏バテだって思ってたんですが、と。
そっと伺い見るように上目に覗き込まれて。
だいたい鳳の方が宍戸よりも格段に背が高いというのに。
上目遣いなんてしてくるなと宍戸が怒鳴りたくなるのは、その表情に滅法弱い自分を自覚しているからだ。
「宍戸さんが足りなくて、へこんでただけみたいで……」
だから、とシャツの裾を握り締める鳳の長い指に力が入ったのが判る。
そんな理由で体調不良になれるものなのかと、宍戸は呆れたいのも山々なのだが。
錯覚だとか、嘘だとか。
宍戸にも結局思えないし、鳳に言ってもやれない自分がいるのもまた事実だった。
だいたい、この間の週末にたまたま会えなかっただけだろうと、随分と恥ずかしく思いもするのだけれど。
「………宍戸さん、?」
ざっと周囲を確かめて、宍戸は鳳の胸元に身体を寄せた。
鳳の胸元のシャツを片手で掴んで、自分からも引き寄せて。
下から首を反らして唇を塞ぐ。
「し、………」
「…………るせ……食っとけ。これでもとりあえず」
宍戸は鳳の唇を伸ばした舌先で軽く撫でるように舐めてから、噛ませた。
飲み込ませた。
口腔に、それを。
音でもしそうに熱っぽく、鳳は宍戸の舌を引き込んで貪ってきたが、すぐに遠慮がちな手が背中に当てられたので、宍戸は自ら鳳と身体を合わせるように更に近づいて唇を開く。
「………汚れます…って……宍戸さん…」
「………………」
躊躇うように肩を掴まれるのは、確かにこうして密着すれば宍戸の制服のシャツは鳳の汗を衣類越しに吸い込みそうな状態であるからで。
でも。
「お前の汗の味くらいもう知ってんだよ」
「………、……」
汚れるも何もない。
「…濡らせ。好きなだけ」
笑って言ってやれば。
物凄い力で抱き締められた。
唇を塞がれた。
鳳の衝動が一気にぶつけられて、苦しく息は束縛され、抱擁で身体は縛り付けられるのだけれど。
宍戸はそれで満足する。
足りないならば。
我慢しろなどと言う気はない。
足りないならば。
欲しいだけやると、いつでも思って、いるからだ。
最高気温はいつでも三十度を越えていて、いよいよどうしようもなく夏なのだということを知らしめられている気分だった。
こう暑いと、却って反動で、宍戸の足は自然とテニスコートへと向いてしまう。
例え時間がたいしてない昼休みだとしてもだ。
直射日光の照りつけるテニスコートは誰もいる筈がないだろうと宍戸が出向いた場所であったが、足を踏み入れてみればそこに、宍戸はよく見知った男の姿を見つけた。
相手は宍戸にまだ気づいていない様子で、ラケットを持った長い腕を綺麗にしならせて、繰り返し繰り返しサーブを打っていた。
髪の先から汗が散っている。
前髪を手で荒くかきあげる仕草の合間に彼の表情を目にした宍戸は眉を寄せた。
「長太郎!」
名前を呼べばすぐに気づいて顔を向けてくる。
「宍戸さん」
微笑んだ柔和な顔は普段と変わらないのだけれど。
宍戸の顔つきは一層きつくなる。
「……お前……いつからやってんだ」
「はい…?」
近づいていって宍戸が手の伸ばした先。
指先に触れた鳳の髪は濡れている。
こめかみから頬へと指先を滑らせると、妙にかしこまってじっとしている鳳が、困ったような顔になっていく。
「………宍戸さん?」
「お前、どこか具合悪いのか?」
「何でですか?」
意外な事を言われたように鳳は軽く首を傾けてくる。
宍戸はぴしゃりと言った。
「顔色よくねえよ。昼メシは」
「………ええと……」
「食ってねえのかよ?」
鳳の返事を待つまでもない。
宍戸は続けざまに怒鳴った。
「アホ…! メシも食わねえで、この炎天下でテニスかよ? やりゃあいいってもんじゃねえだろうがっ!」
鳳がここまで汗をかいている様は、宍戸も滅多に見る事が無い。
そのくせ、顔は汗で濡れているが、腕などはさらさらとしていて。
脱水症状でも起こすのではないかと思って宍戸は加減も何もなく鳳を叱り付けた。
長身で一見細身だがしっかりとした骨格を持っている鳳は、その実結構な虚弱体質だと宍戸は思っている。
正確にはデリケートといったほうがいいのかもしれない。
風邪がはやれば素直にその流行にのり、合宿に行けば枕がかわったせいで寝つきが悪くなる。
暑い夏なら例に漏れずに夏バテで、全く持って食べられなくなるのだ。
現にこうして、痩せた頬と疲れきったような気配とに、宍戸は今から購買に行って何か買って来られるだろうかと頭で考え、そして。
考えるより先に行動だと、宍戸が身を翻した時だった。
鳳が、宍戸のシャツの裾を掴んだ。
「…………………」
それは去って行くものに対して、追いすがる子供の仕草そのもので、宍戸は呆気にとられる。
鳳自身も一瞬びっくりしたような顔をしていて、でも宍戸のシャツを掴みしめている指先は外れなかった。
「長太郎…?…」
「すみません………でも、いかないで」
「いかないでって…お前……」
そんな必死な目で何で、と宍戸の困惑は一層深くなる。
すみません、と鳳はもう一度言った。
伏せた目元で、まっすぐに長い睫毛が数回躊躇うように動いた。
何を言いよどんでいるのかと宍戸が怪訝に見つめる先、鳳は小さく低い声で言った。
「夏バテというより……宍戸さんが足りなくてバテてただけだから……」
「………はあ?」
「や、……俺も今ちゃんと判ったっていいますか……」
自分でも夏バテだって思ってたんですが、と。
そっと伺い見るように上目に覗き込まれて。
だいたい鳳の方が宍戸よりも格段に背が高いというのに。
上目遣いなんてしてくるなと宍戸が怒鳴りたくなるのは、その表情に滅法弱い自分を自覚しているからだ。
「宍戸さんが足りなくて、へこんでただけみたいで……」
だから、とシャツの裾を握り締める鳳の長い指に力が入ったのが判る。
そんな理由で体調不良になれるものなのかと、宍戸は呆れたいのも山々なのだが。
錯覚だとか、嘘だとか。
宍戸にも結局思えないし、鳳に言ってもやれない自分がいるのもまた事実だった。
だいたい、この間の週末にたまたま会えなかっただけだろうと、随分と恥ずかしく思いもするのだけれど。
「………宍戸さん、?」
ざっと周囲を確かめて、宍戸は鳳の胸元に身体を寄せた。
鳳の胸元のシャツを片手で掴んで、自分からも引き寄せて。
下から首を反らして唇を塞ぐ。
「し、………」
「…………るせ……食っとけ。これでもとりあえず」
宍戸は鳳の唇を伸ばした舌先で軽く撫でるように舐めてから、噛ませた。
飲み込ませた。
口腔に、それを。
音でもしそうに熱っぽく、鳳は宍戸の舌を引き込んで貪ってきたが、すぐに遠慮がちな手が背中に当てられたので、宍戸は自ら鳳と身体を合わせるように更に近づいて唇を開く。
「………汚れます…って……宍戸さん…」
「………………」
躊躇うように肩を掴まれるのは、確かにこうして密着すれば宍戸の制服のシャツは鳳の汗を衣類越しに吸い込みそうな状態であるからで。
でも。
「お前の汗の味くらいもう知ってんだよ」
「………、……」
汚れるも何もない。
「…濡らせ。好きなだけ」
笑って言ってやれば。
物凄い力で抱き締められた。
唇を塞がれた。
鳳の衝動が一気にぶつけられて、苦しく息は束縛され、抱擁で身体は縛り付けられるのだけれど。
宍戸はそれで満足する。
足りないならば。
我慢しろなどと言う気はない。
足りないならば。
欲しいだけやると、いつでも思って、いるからだ。
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